豊浦寺跡 とゆらでらあと | |||
太子山 向原寺(こうげんじ) 浄土真宗本願寺派 | |||
所在地 | 奈良県高市郡明日香村豊浦630 | ||
御本尊 | 阿弥陀如来像 | ||
向原寺縁起 | 日本書紀によりますと、我国に初めて仏像や経論が伝えられたのは、欽明天皇の十三年(552)で、その仏像は蘇我稲目が裁き己がオハリタの向原の家を寺としてまつったということです。このムクハラの寺こそ我が向原寺の起こりで、当寺は実に我国仏法の根元、寺院最初の霊場であります。当寺はまた、古来元善光寺と称していますが、これについては次のように伝えております。さきに百済の聖明王は仏像経論を献ずると共に仏法のかぎりなき功徳を説き、その弘通をすすめましたが、物部尾興・中臣鎌子等は強くこれに反対し、向原の寺を焼き、仏像はナニワの堀江に捨てました。その後推古天皇の八年、信濃国主に従って上都した本田善光(同国伊那郡誉田の人)が、或る日のこと都見物をしようとて、難波池の辺りを通りますと「善光 善光」と呼ぶ声が聞こえるので善光がフトその方を向くと、池中から光がさしてきます。よく見るとそこにはピカピカと金色にかがやく気高い霊像があります。善光は驚いてすぐさまこれを拾い上げ、傍なる瀧ですすぎ清めますと、それは世にも珍しい霊妙不可思議の三尊像であります。これこそかねてから話しに聞く阿弥陀如来の尊像にちがいない。吾等衆生救済のため、五劫にわたる思推を重ね苦行を積んで下さった御仏であると、有難く涙にくれながら、この仏像を背に負い信濃に帰って我が家に安置し一心に礼拝供養いたしました。これが信州善光寺の起源であると申します。 この善光については、その昔釈尊在世の頃、インドに月蓋長者と呼ばれる人がいて、その願いにより、釈迦如来が阿弥陀如来と二尊の光明によって一光三尊の仏像をお造りになりました。この仏像がインドから中国にわたり百済を経て日本へ伝えられると、もったいなくも難波堀江に捨てられるという悲運にお会いになったというわけであります。善光の救い上げたのがこの仏像で、善光は実はかのインドの月蓋長者の生まれ変わりであるといいます。 さて当寺の最初の建物は、尾興等に焼かれましたが、推古天皇はこの地に宮をうつされ、聖徳太子を摂政として政治をおまかせになりました。十七条憲法ができ、法隆寺、四天王寺等が建てられ、飛鳥時代と呼ばれるすばらしい文化のさかえを見たのは此の時であります。推古天皇の後、都は飛鳥の岡本に移され、この宮の跡にはまた寺が建てられ豊浦寺と申しました。金堂、講堂、塔婆など完備した一大伽藍が飛鳥川のほとり、甘樫の丘の麓に甍をならべたのであります。 あすか川ゆきたむ丘の秋萩は今日ふる雨にちりかすぎなむ(万葉集) (これは豊浦寺でよまれた歌であります) 都が平城、平安と遠くへうつるにつれ、飛鳥の諸大寺と共に頽勢の一途を辿り、今は全く昔の面影を失ってしまいました。しかしながら当寺の由緒は国史に厳存し、出土の古瓦によって、飛鳥時代の創建が実証せられるばかりでなく、去る昭和34年の発掘調査によって多くの遺跡構造物が発見され、そのかみの壮大な伽藍配置など明らかになり、ありし日の盛観が偲ばれるに至ったのであります。 宝物 ナニワの堀江で発見の飛鳥時代仏像。 | ||
向原寺 蘇我稲目が最初に仏像をまつった寺豊浦寺跡の案内看板があります。 | |||
向原寺山門 | |||
豊浦宮の建物跡 石敷き(頭大の石を敷き詰めています) 1300年前の遺跡を公開されていました。 豊浦寺の講堂礎石(写真下)(発掘時に出てきたものだそうです。) | |||
難波池 きれいに整備されて大切にまつられている 蘇我稲目の仏像が物部尾興・中臣鎌子等によって投げ込まれた難波の堀の跡 難波池神社 祭神 豊玉比売命 | |||
甘樫坐神社の石碑 盟神探湯(くかたち)の碑 第20代充恭天皇のときに行われた古代の裁判。今も甘樫坐神社で4月の第1日曜日盟神探湯の神事が行われています。 |