気比神宮
けひじんぐう

旧社格 官幣大社・式内名神大社
所在地
福井県敦賀市曙町11―68

御祭神 主祭神 伊奢沙別命 (いささわけのみこと)
相祭神 仲哀天皇 (ちゅうあいてんのう) 本社
神功皇后 (じんぐうこうごう) 本社
日本武尊 (やまとたけるのみこと) 東殿宮
応神天皇 (おうじんてんのう) 総社宮
玉妃命 (たまひめのみこと) 平殿宮
武内宿禰命 (たけのうちのすくねのみこと) 西殿宮
摂社祭神 都怒我阿羅斯等命 (つぬがのあらひとのみこと) 角鹿神社
御食津大神荒魂神 (みけつおおかみのあらたまのかみ) 伊佐々別神社
天伊弉奈彦大神 (あめのいざなひこのおおかみ) 天伊弉奈彦神社
天比女若御子大神 (あめのひめにわかみこのおおかみ) 天伊弉奈姫神社
天利劔大神 (あめのとつるぎのおおかみ) 天利劔神社
末社祭神 伊弉冊尊 (いざなみのみこと) 児宮
猿田彦大神 (さるたひこのおおかみ) 猿田彦神社
素盞鳴尊 (すさのおのみこと) 金神社
大己貴命 (おおなむちのみこと) 大神下前神社
天鏡尊 (あめのかがみのみこと) 鏡神社
天照皇大神 (あまてらすすめらおおかみ) 神明神社
豊受大神 (とようけのおおかみ)
姫太神尊 (ひめおおかみのみこと) 剣神社
武功狹日命  擬領神社
林山姫神 (はやしやまひめのかみ) 林神社
由 緒
由緒沿革
伊奢沙別命は、笥飯大神(ケヒノオオカミ)、御食津大神(ミケツオオカミ)とも称し、二千有余年、天筒の嶺に霊跡を垂れ境内の聖地(現在の土公)に降臨したと伝承され今に神籬磐境の形態を留めている。上古より北陸道総鎮守と仰がれ、海には航海安全と水産漁業の隆昌、陸には産業発展と衣食住の平穏に御神徳、霊験著しく鎮座されている。仲哀天皇は御即位の後、当宮に親謁せられ国家の安泰を御祈願された。神功皇后は、勅命により御妹玉妃命と武内宿禰命とを従えて筑紫より行啓せられ、親ら御参拝された。その時に笥飯大神が玉妃命に神憑りして「天皇外患を憂い給ふなかれ、兇賊は刃に血ぬらずして自ら帰順すべし」と御神託があったという。文武天皇の大宝二年(702)勅して当宮を修営し、仲哀天皇、神功皇后を合祀されて本宮となし、後に、日本武尊を東殿宮に、応神天皇を総社宮に玉妃命を平殿宮に武内宿禰命を西殿宮に奉斎して「四社之宮」と称した。明治二十八年三月二十六日に神宮号宣下の御沙汰に依って気比神宮と改められた。延喜式神名帳に「越前國敦賀郡気比神社七座並名紳大社」とあり、中古より越前国一ノ宮と定められ、明治二十八年に官幣大社に列せられ、一座毎に奉幣に預かることになった。当神宮の紳嶺は持統天皇の御代より増封が始まり、奈良時代を経て平安朝初期に能登国の沿岸地帯は当神宮の御厨となった。渤海使が相次いで日本海沿岸に来着したので紳嶺の気比の松原(現国定公園・日本三大松原)を渤海使停宿の処として、天平神護二年(766)勅によって松原客舘が建設され、これを、気比神宮宮司が檢校した。延元元年(1336)大宮司氏治は、後醍醐天皇を奉じ金ケ崎城を築いて奮戦したが利あらず一門ことごとく討ち死にし、社領は減ぜられたが、なお、二十四万石を所領できたという。元亀元年(1570)四月大宮司憲直等一族は国主朝倉氏の為に紳兵社僧を発して織田信長の北伐を拒み、天筒山の城に立て籠もり大激戦を演じたが、遂に神宮寺坊は灰塵に帰し、四十八家の祠官三十六坊の社僧は離散し、古今の社領は没収され、祭祀は廃絶するに至った。慶長十九年(1614)福井藩祖結城秀康公が社殿を造営されると共に社家八家を復興し、社領百石を寄進された。この時の本殿は流造を代表するもので明治三十九年国宝に指定されたが戦災(昭和二十年七月十二日)により境域の諸建造物と共に惜しくも焼失した。その後、昭和二十五年御本殿の再建につづき同三十七年拝殿、社務所の建設九社の宮の復興を見て、祭祀の厳修につとめたが、近年北陸の総社として御社頭全般に亘る不備を痛感、時代の趨勢著しいさ中、昭和五十七年気比神宮御造営奉賛会が結成され、「昭和の大造営」に着手、以来、本殿改修、幣殿、拝殿、儀式殿、廻廊の新設成り、旧国宝大鳥居の改修工事を行い、平成の御世に至って御大典記念気比の杜造成、四社の宮再建、駐車場設備により大社の面目を一新して今日に至る。


表参道入口
朱の大鳥居

表参道
木造の大鳥居

境内広場
中鳥居

中鳥居と社殿

拝 殿

東門からの社殿

本殿

幣殿と本殿が一体になっていて、屋根が微妙な曲線で連結されている。


境内社への鳥居
東門と対になる位置になりなす

境内社
九社ノ宮

神明社 
内宮と外宮

境内社

角鹿神社・兒宮・大神下前神社

駐車場横に並んで鎮座。

角鹿神社
(ツヌガジンジャ)

摂社

祭神・都怒我阿羅斯等命、式内社、崇神天皇の御代、任那の王子の都怒我阿羅斯等氣比の浦に上陸し貢物を奉る。天皇氣比大神宮の司祭と当国の政治を委せらる。その政所の跡に此の命を祀ったのが当神社で現在の敦賀の地名はもと「角鹿」でこの命の御名に因る。殿内に宝物獅子頭を安置す。除災招福の信仰が篤い。天保十年松尾大神を合祀、酒造家の信仰が篤い。

角鹿神社拝殿と扁額

角鹿神社本殿

兒宮

御祭神 伊弉册尊

大神下前神社

御祭神 大己貴命
合祀 稻荷大神
金刀比羅大神

猿田彦神社への参道

大鳥居からの表参道より北向きに参道があります。

猿田彦神社

長命水

表参道の中鳥居手前にあり、往古よりこんこんと湧き出て無病息災・延命長寿に欠かせない生命(いのち)の水

ユーカリの木

芭蕉の碑と芭蕉像
境内の南側

神水苑

土公 (どこう)

氣比神宮境内東北部に位置し当神宮鎮座にかかる聖地として古来より「触るべからず畏み尊ぶべし」と社家文書に云い伝えられているが、嘗て天筒山の嶺に霊跡を垂れ更に神籬磐境の形態を留める現「土公」は氣比之大神降臨の地であり、傳教大師・弘法大師がここに祭壇を設け七日七夜の大業を修した所とも伝えられる。 土公は陰陽道の土公神の異称で、春は竈に夏は門に秋は井戸に冬は庭にありとされ、其の期間は其所の普請等を忌む習慣があったが此の土砂を其の地に撒けば悪しき神の祟りなしと深く信仰されていた。戦後境内地が都市計画法に基づき学校用地として譲渡の巳む無きに至ったが土公と参道はかろうじてそのままの形で残された。大宝二年(702)造営以前の氣比宮は此の土公の地に鎮座され祭祀が営まれていた。此の聖域を通して氣比之大神の宏大無辺の御神徳を戴くことが出来るよう此のたび篤信者の奉賛により遥拝設備が立派に完成されるに至った次第である。


敦賀駅前の都怒我阿羅斯等命

敦賀駅前の銀河鉄道999のモニュメント

敦賀市との関係はわかりませんが、銀河鉄道のモニュメントが駅前商店街に相当数あります。
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