御霊神社(霊安寺町)
ごりょうじんじゃ(りょうあんじちょう)

旧社格 県社・国史見在社
所在地
奈良県五條市霊安寺町宮崎2206

御祭神 主祭神 井上内親王 (いのうえないしんのう)
摂社祭神 早良親王 (さわらしんのう) 早良神社
他戸親王 (おさべしんのう) 他戸神社
末社祭神 表筒男命 (うわつつおのみこと) 住吉神社
中筒男命 (なかつつおのみこと)
底筒男命 (そこつつおのみこと)
息長帯姫命 (おきながたらしひめのみこと)
春日四柱神 (かすがしはしらのかみ) 春日神社
大物主命 (おおものぬしのみこと) 金刀比羅神社
品陀和気命 (ほんだわけのみこと) 八幡神社
由 緒
国道168号線の東側、丹生河畔の丘陵上に東面して鎮座する。字宮崎は、当社と霊安寺の境内地を含む一円の総称で、当社の東側に満願寺がある。国史見在社であり旧県社。宇智郡(現五条市全域)に分布する御霊神社の本宮で、祭神は井上内親王・他戸親王。
祭神井上内親王は聖武天皇の第二皇女であったが、『続日本紀』の宝亀三年(772)三月癸未と同四年十月辛酉の条によると、巫女に天皇を呪詛させたとの罪で、皇太子他戸親王と共に廃されて、宇智郡の没宮宅に幽閉され、同六年四月二十七日母子共に死去された。『水鏡』に記されているように、この事件は藤原百川の謀略によるものとの噂が当時の世間に流布されたが、同七年(776)九月と翌年冬に天災地変がしきりに起り、皇后・太子の怨霊と恐れられた。そのため霊安寺が創立されて両者の霊を弔ったが、さらに長禄二年(1458)の『霊安寺御霊大明神略縁起』や天文三年(1534)の『御霊宮本紀』によると、桓武天皇の勅願によって当社が創祀され、降って嘉禎四年(1238)閏二月、在地武士の牧野氏と吉原氏の論争によって、宇智郡内十か所に分祀されることになった。その後当社は、正和元年(1428)の土一揆に際して守護畠山氏に焼き払われた。当社所蔵の棟札には、二十七年後の康正元年(1455)に改築されたとある。
現在の本殿は、流造檜皮葺桁行6.14メートル、梁間3.81メートル、向拝の出2.43メートルの三間社で寛永十四年(1637)再建の桃山風江戸初期社殿建築の典型として県の重文に指定されている。
井上内親王の御神体とされる御霊大神坐像は、両袖を胸前で合わせ安産した像高36.7センチの木造彩色の女神像で、藤原末の作風。二体の裸形童子立像は、早良親王・他戸親王の御神体とされていて、木造彩色、像高21.2センチと20センチ、鎌倉末期の作風である。
例祭は十月二十三日。昔は旧九月八日宵宮際、九日本祭であったが三月二日六人衆が当屋の庭でお仮屋を建てその中にフシの木を二本立てる。翌三日神主によって神うつしした榊のヒモロギをお仮屋のフシの木にさしその日から九月九日還御の日まで毎早朝、神社東北の谷間の紳水をお供えする。九月七日は御幣作りで六人衆が、長さ二間の竹に晒の布を巻き五色の紙を四タレに切ってつけ、開いた日の丸扇を三本水引で結び、白米の包みをつるす。八日の朝、神官が新しいヒモロギ(榊)二本を当屋のお仮屋に立てるが六人衆も参列する。夜の十二時、当屋と次の当屋が新しいヒモロギに米の穂十二本、枯れた古いヒモロギに白米一つまみをつけ、当日朝作った若宮の御幣とともに捧持して本社と若宮へ納めるが、九日の祭典には講中全員参列、終了後直会となる。
享保四年(1719)の文書には例祭日に御供を霊安寺村と御山村、猿楽を御山村、相撲を霊安寺村が奉納すると記されているが今は行われていない。現在は十月二十二日の午後五時五條の御旅所へ神輿が渡御して一泊、翌二十三日霊安寺へ廻って本宮へ還御、祭典を行う。
     -奈良県史(神社)より-


神社全景

手前右側に老人憩の家がありました
国道からの分岐道は狭いが、周辺の道は意外に拓けていて
びっくり、やはり本宮。 

御霊神社

拝殿

本殿

屋根しか見えなかったが、その檜皮葺の屋根に網が掛けられている。鳥害から守るためなのか?残念だった。現実には勝てない。

境内社

水神社・祓戸社・住吉神社・琴平神社

稲荷社

鳥居をくぐってすぐ左側に鎮座
赤い鳥居が周りの緑に映えて目立つ存在です。

境内社
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