広峰神社
ひろみねじんじゃ

旧社格 無格社
所在地
奈良県生駒郡安堵町東安堵380 (字柿添)

御祭神 素戔嗚尊 (すさのおのみこと)
由 緒
広峰神社は江戸時代を通じて「牛頭天皇」と呼ばれていた。兵庫県姫路市広峰山にも同名の広峰神社があることが知られている。勧請年代は不明であるが、慶長三年(1598)の記録「安堵社紳験記」によれば、社地は聖徳太子の居られた飽波の宮地に当たるという。当社は年貢を免除された三十間に二十間の広さからなり、境内に宮寺万福寺があった。
本尊は薬師如来像で、経塚一基が造立されていた。いわゆる神仏習合の形をとっていたのである。元禄十五年(1702)の「和州平群郡東安堵村明細帳」によれば、除地の境内に桁行二尺梁行二尺五分、板葺の社殿一宇。高さ九尺、横幅六尺五寸の鳥居一基の設備からなっていた。明治二十五年(1892)の「神社明細帳」によれは、社殿は方二尺、拝殿は桁行壱間三尺梁行壱間。境内坪数158坪、氏戸数九戸となっている。明治十年には神社の境内が確定しており、もとは「旧境内反別八畝弐拾参歩」であったのが「改正反別五畝壱拾八歩」と減少している。これは万福寺が無住無壇のために廃寺処分となり、寺地が官有地へ転入されたためと思われる。また、これによれば当社は「式外村社」とあり、神体は幣、神官は郷社菅田神社の祠掌・藤本茂臣が兼務していたことがわかる。また、明治十四年「社号改称之願之写」によれば、明治初年には飽波神社とともに「杵築社」と称号を変更するように命じられたが、祭神が素戔嗚尊であることから、「広峰社」とする旨を願い出ている。
 境内には、明治時代の奉納絵馬十三点、扁額一点、太鼓一点、湯釜一点が残る。湯釜は神事用ではなく、釜を転用した新しいものであるが、これを用いて昭和三十年ごろまで湯上神事が巫女によって行われていたという。
 また、石造り品に寛延四年(1751)銘のものをはじめとして灯籠三基、鳥居一基が残る。鳥居前にある井戸は、「聖徳太子鏡井戸」と伝えられ、周辺が旱水となっても、この井戸水は枯れることがなかったと伝承されている。当社はもと飽波神社の置かれたところという伝承があり、記録に当社地は最初聖徳太子が、父用明天皇が病気になられた際、その平癒と伽藍守護を祈願して勧請した場所とある。寛弘三年(1006)に恵心僧都によって極楽寺が再興された際に、現在の飽波神社へ正遷宮が行われ、東西安堵の氏神として祀ったという。また、「安堵村史」でも飽波神社を移すにあたって、七度半の出迎えを受けて初めて御神体(神鏡)を移し、その跡地を広峰神社としたことが記されている。また、飽波神社の祭礼にはまず広峰神社を元宮としてこちらの提灯から先に点灯するという。現在は行われなくなったが、江戸時代には、毎年正月の三日間に「夜法会」(やほえ)という神事が行われていた。これもまた、広峰神社と飽波神社の関連を示す行事である。「旧式夜法会神事」によれば、正月六日に神前に山海の供膳を供え、夜氏子たちが飽波神社の境内に揃い、松や竹の木を鳥居前に結わえ付け、それに柴を付けて三丈もの高さにして篝火とする。境内には松明を三本「ホロソ、ホロソ」と声を掛けながら振り廻す。また、疫紳退散のために「チコロ、チコロ」と掛け声をかけ、立篝にも火が灯され人々によって「ハリサイ、ハリサイ」と叫びながら三度周りを巡るという。人々はこの立篝から縄に火を移して「ヤアホイ、ホロソ、ホロソ」といいながら、火を元の場所へ戻し、火を消して行事を終える。この行事は広峰神社の地に住んだ芦屋道満という陰陽師の行う秘法に由来するものだという。この神事は陰陽道に関する作法を受け継ぐもので、火によって浄めと祓いを行い、きたる新しい年の五穀豊穣、天下泰平を願うものである。
 広峰神社の北側にあたり「夜法会山」(ヤップ山)といい、この場所は芦屋道満の住居跡であると伝えられている。
     -安堵町史より-

神社入り口
神社入り口
案内看板
境内の案内板
業平井戸
業平姿見の井戸

聖徳太子の掘られた井戸といわれ、後に在原業平がここで休憩し姿を映されたことから、業平の姿見の井戸とも言われています。
―立て看板より―
社殿全景
社殿外観

拝殿と塀による瑞垣
手前に鳥居
拝殿
拝殿
拝殿からの本殿
拝殿内からの本殿
本殿
本殿

小ぶりだが立派な本殿
本殿外観
拝殿横からの本殿

覆い屋で囲われた本殿
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