杵築神社
きづきじんじゃ

旧社格 指定村社
所在地
奈良県生駒郡安堵町窪田420

御祭神 主祭神 素盞鳴命 (すさのうのみこと)
末社祭神 天児屋根命 (あめのこやねのみこと) 春日神社
天照大神 (あまてらすおおみかみ) 伊勢皇大神宮
  金毘羅大権現
由 緒
当社創建は、寿永弐年辰四月卯の日(1178年)と記録に有り、現神社は昭和三十五年大和川改修により当地に移転、御本殿は春日式にて、文化年間に春日大社若宮旧本殿を拝領の物である。境内に推古式古代人造の石塔が現存、きわめて古風で平安時代の造立説がある。
     -境内の案内板より-

明治十五年(1882)の「平群郡窪田村村誌」によれば、杵築神社(村社社地東西廿間三尺南北廿二間三尺面積四百六十一坪本村社ノ未方ニアリ、素戔男命ヲ祭ル。祭日旧九月十九日) とあり、461坪の境内地を持って村の未方(南南西)に位置し、素戔男ノ命を祀り、例祭は旧の九月十九日に行われていたことがわかる。同二十五年の「神社明細帳」には、「村社須賀神社」とみえ、この時期には社名は須賀神社となっている。江戸時代には、延宝七年(1679)の「大和国平群郡窪田村検地帳」の「除地」の部に、
 一、一反二施歩   弐拾弐間三尺、拾六間
    上窪田村中氏神   牛頭天皇宮地
    境内社有之
と書き上げられ、また、宝暦十年(1760)の窪田村の「村明細帳」にも、
    牛頭天皇   境内壱反弐施歩
       南北   弐拾弐間三尺
       東西   拾六間
是ハ先々ヨリ御除地御検地帳面ニ記御座候。とみえるように、「牛頭天王」と呼ばれた。あるいはまた明和三年(1766)「大宮修補入用帳」にあるように単に「大宮」とも称され、その修復に当っては、上の垣内から合わせて290匁4分が「家数合百拾四軒壱軒ニ付弐匁五分五厘」掛かりとして寄進されており、窪田村の惣氏神として広くその信仰を集めてきた様子がうかがえる。
 由緒については、大正五年(1916)の「神社調査書」によれば、寿永二年(1183)四月卯の日、「繁田郷ヨリ蘇武ノ郷ヘ御移座」とある。繁田郷とは、現磯城郡川西町大字吐田、蘇武郷は窪田の旧称であるが、移座の折、大和川を清めて奉迎したと伝えられ、以来、「川堀祭」と称して毎年四月の中の卯の日に早朝から氏子の人々が寄り集まり、川浚えの式が行われてきた。また、明治二年の「窪田氏神之記録写」には、「窪田村大宮明神秘書」として、聖徳太子が橘寺への道中に当社に立ち寄られたという。次のような由緒を伝えている。
 抑当所氏神之古跡を奉尋安全三十三崇峻天皇之御時ヨリ今年ニ至迄六百十二年以前聖徳太子橘寺ヘ御通ヒ被成当所明神之社ヲ御休メトシテ御休足有エ、里ヨリ北ほそ川有曽無川ト申也、其ヲかたとり当所氏神暫身を変し幼稚輩と化し玉ふ、其の時明神を奉守護ゆへ末之世迄旧跡残し名三人に伝へ聞きし残置候もの也、      歴仁元戌年八月廿日
    和州平群郡窪田村
       御幣壱本
       御前一膳    仲善右衛門
     名   同      仲  宗助
         同      馬場 九助
     右の通り先祖江遺し候、     以上
 現在の社地は昭和三十三年(1958)、大和川の改修のために移転造営されたものであり、境内にある「杵築神社移転記念碑」には、「起工。昭和参拾三年八月五日。竣工。昭和参拾五年四月十日」「総工費 金七百八十七万壱千七百円也」とある。境内にある狛犬は弘化三年(1846)九月吉日に「上座内 氏子中」などにより奉献されたもので、「大坂西横堀 石工 小嶌屋半兵衛」の銘がある。
 本殿横の灯籠には「(種字)奉寄進石灯籠一基 村中安全 攸丁延宝五年(1677)に氏子中から寄進されたものである。ほかにも、安永三年(1744)の「牛頭天王」の銘がある永代常夜灯、同九年の「愛宕山常夜灯」 文久三年(1862)の「雨乞い成就」の銘のある常夜灯など、多数の灯籠が残る。また、拝殿内側にある文久元年の手水鉢には「奉納馬場鎮守當社座中文久元辛西天 九月日」との銘があり、あるいは馬場塚の北方にあり、のちに杵築神社に合祀された春日神社にかかわるものとも考えられる。
        ―安堵町史より抜粋―


神社全景

境内
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