敢国神社
あえくにじんじゃ

旧社格 国幣中社・式内社
所在地
三重県伊賀市一之宮877

御祭神 主祭神 大彦命 (おおひこのみこと)
相祭神 少彦名命 (すくなひこなのみこと)
金山媛命 (かなやまひめのみこと)
摂社祭神 伊弉諾尊 (いざなぎのみこと) 六所社
伊弉冉尊 (いざなみのみこと)
素盞鳴尊 (すさのおのみこと)
日神命 (ひのかみ)
月神 (つきのかみ)
蛭児 (ひるこ)
不詳  九所社
末社祭神 須佐之男命 (すさのおのみこと) 大石社
金山比古命 (かなやまひこのみこと)
大日霊貴尊 (おおひるめむちのみこと)
大山祇命 (おおやまつみのみこと)
仁徳天皇 (にんとくてんのう) 若宮八幡宮
楠正成 (くすのきまさしげ) 楠社
藤堂元甫 (とうどうもとすけ)
天照大御神 (あまてらすおおみかみ) 神明社
高皇産霊尊 (たかみむすびのみこと) 結社
手間天神 (てまのてんじん)
不詳  子授け神
市杵島姫命 (いちきしまひめのみこと) 市杵島神社
由 緒
御由緒
当社は古来伊賀の国の一之宮として、当国の人々の総鎮守大氏神として、仰ぎまつってその霊徳も浴してまいりました。貞観のころには神階五位を授けられ、延喜の制には大社に列せられました。また延長年間には朝廷より社殿が修造せしめられ、南北朝時代には後村上天皇が行幸ましまして、数日間参籠あらせられ、社領の御加増もありました。徳川時代には藩主藤堂家の崇拝厚く、社殿調度の修営・紳器社領の寄進。祭儀神事の復興等が行われました。明治四年五月国幣中社に列せられ今日に至っております。

敢國神社 略史
当社は今から1300年以上前に創建されました。詳しくは7世紀の中期、658年という年に創建されました。創建当時は大彦命・少彦名命の二柱で敢國神社が創建されました。
創建以前のお話になりますが、当社の主神である大彦命(おおひこのみこと)は、350年頃第8代孝元天皇の長子として大和国に生まれた方だとありますが、大和朝廷創建期の武人として、その子建沼河別命(たけぬまかわわけのみこと)と共に北陸東海を征討する役目を負われ、四道将軍の一人として、第10代崇神天皇の命を命を承け日本の東国の攻略を果たされた方です。この大彦命が大和朝廷に帰服(第7代考霊天皇時)して以来、伊賀の国を本貫の地として駐屯され、事実上の伊賀の領主であり、子孫は伊賀の国中に広がっていきました。伊賀の国の阿拝(あえ)郡を中心に居住したため阿拝氏を名乗るようになり、後に敢・阿閉・安部・安倍(あべ)と呼ばれるようになりました。あべ氏の総祖紳でもあると共に伊賀人の祖紳でもあります。
古代伊賀地方には外来民族である秦(はた)族が多数住んでおり、彼等が信仰する神が当社の配信である少彦名命(すくなひこなのみこと)でありました。当時は現在の南宮山頂上付近にお祀りしていましたが、創建時には南宮山より現在地に遷してお祀りして現在に至っています。私たち伊賀人はこの二紳の混血の民族でもあります。
創建後、南宮山の少彦名命の社殿が山の下に遷された跡地は、新しい神社創建に当たっては混血の一族の有力者の人たちの頭を悩ましたことであろうと思われます。結局美濃国の南宮社の社神である金山姫命(かなやまひめのみこと)を、旧少彦名命の跡地に勧請いたしました。この頃『南宮山』という名がついたのではないかと推測されます。その南宮山の金山姫命が敢國神社の本殿に合祀されたのは、創建時より319年後の977年のことです。ある日突然金山姫の社殿が激しい音をたててゆれ、止むと同時に社前の御神木の幹に、虫食いの痕が文字となって現れ、『興安倍久爾神同殿』という八文字でした。神官の報告を受けた当時の伊香守高則は、早速主家の藤原兼家に報告、直ちに紳慮に従って金山姫命の遷座合祀が行われました。こうして当社は三神をもって敢國神社・敢國津大神(あえくにつおおかみ)となって現在に至っております。少彦名命を主神とする秦族は、外来民族でいろいろな技術文化を伝えてくれています。たとえば伊賀の組み紐・伊賀焼・酒造などがあります。
また芸能にも見られ、鎌倉時代に盛んになった田楽の祖・観阿弥は伊賀の出身者であります。田楽が武士階級の娯楽に発展し、また同じ頃に獅子神楽が庶民階級で発達していきました。当社に伝わる獅子神楽(三重県無形文化財指定)もこの時期に出来たものであろうと言われています。現在伊賀地方各町で執り行われている獅子神楽の原型とも言われ、伊勢神楽にも多大な影響を及ぼしたともいわれています。
現在当社は伊賀国の一之宮として家内安全・交通安全・商売繁盛・厄除芸能祈願の御参拝者で伊賀地方の方のみではなく、愛知・岐阜・北陸・関東地方より多数御参拝いただいております。
    -参拝の栞より-


駐車場からの景観この森の中に社殿があります


大石社(おおゆわやしろ)
御祭神 
須佐男命・金山比古命・大山祇命・大日靈命・大物主命
由  緒
伊賀一宮敢国神社の末社として鎮座創建年代は不詳。ある一之宮より中瀬字寺田に至る道路の左傍に大池あり池の東方山麓に岩石ありてこれを黒岩といふ大石の社名はこの岩石よりつけられたものであらう。大石社独立時代の祭神は文献なく知る由も無い明治四十三年三重県の指令により村内にある津島神社と琴平社を大石社に合祀した社殿は明治四十四年の暴風雨により到潰したが大正二年に再建された。 津島神社は元村社で当時來迎寺の南50m.のところ(現在民有地の畑)に鎮座され境内も広く大鳥居御社殿参集殿など建立されていた尚愛知県島津市に鎮座する本宮島津神社を崇敬する人々が徳川時代中期より島津講を結成しその講員は来迎寺の檀家集及び敢国神社の氏子によってその年長者より十一名を定められその活動を現在も存続している。 琴平社は妙慶寺東150m.東山の上平地に鎮座され島津神社と同じように鳥居御社殿参集殿なども建立されていたが両社ともその面影は殆ど見当たらない香川県のこんぴらさんを崇敬する妙慶寺住職を始め九人の講員が現在講を持続している


表参道からの鳥居

鳥居から拝殿

境内からの拝殿

拝殿内部

拝殿から本殿への渡り部


狛犬

市杵島姫社(弁天社)

表参道の鳥居の手前左側鏡池の中に鎮座

手ばなかむおとさへ梅のにほひかなばせを

元禄元年(1688)芭蕉45歳の作。季語『梅』で春。『笈の小文』の旅で伊賀上野に帰郷中の芭蕉が、梅の咲く頃の爽やかな山里の趣を詠んだ句で、『卯辰集』(北枝編)に収められている。土芳の『芭蕉句集草稿』には、「伊賀の山家に有て」の前書きがあり、下五を「さかり哉」とする。『手鼻かむ音』は、紙を使わず手で鼻をかむしぐさ。この語などは、和歌の観念では行かされそうにない素材であるが、芭蕉は和歌・連歌で詠み残した世界を広く俳諧の世界に生かし新境地としている。この句も高雅で伝統的歌題である『梅』の情趣に、いかにも卑俗な「手鼻かむ音」を配して、寒さの残る山里の野趣を表現しているところは、和歌の伝統などには見られない俳味である。 句意は、「早春のこととて、梅の花が今盛りを迎えている。その匂いの中に立っていると、傍らでふと手鼻をかむ音がした。そんなはしたない音さえも、田舎らしい趣が感じられてくる。」

境内の御神水井戸・桃太郎岩

桃太郎岩

古伝によりこの桃太郎岩は今を去る550年前南宮山頂(前方に聳える山)からお遷し申し上げ、安産及び子授けの守護の霊石として全国各地より信仰をあつめて居ります。御祈願を社務所の方にお越しくだされば岩田帯及びお守りを授与いたします。
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