日御碕神社
ひのみさきじんじゃ

旧社格 国幣小社・式内社

所在地


島根県出雲市大社町日御碕455

御祭神 主祭神 天照大御神 (あまてらすおおみかみ) 日沈宮(下の宮)
神素盞鳴尊 (かむすさのおのみこと) 神の宮(上の宮)
相祭神 活津彦根命 (いくつひこねのみこと) 日沈宮(下の宮)
熊野豫樟日命 (くまのくすひのみこと)
正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊 (まさかつあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと)
天照大御神 (あまてらすおおみかみ)
天津彦根命 (あまつひこねのみこと)
市杵島姫命 (いちきしまひめのみこと) 神の宮(上の宮)
田心姫命 (たごころひめのみこと)
端津姫命 (たぎつひめのみこと)
摂社祭神 天葺根命 (あめのふきねのみこと) 林神社(境外摂社)
末社祭神 伊弉冊尊 (いざなみのみこと) 熊野神社(境外末社)
由 緒


御鎮座の由来・沿革
(1)日沈宮
日沈宮は、神代以来現社地に程近い海岸(清江の浜)の経島(ふじま)【文島又日置島ともいう】に御鎮座になっていたが、村上天皇の天暦二年(約一千年前)に勅命によって現社地に御遷座致されたのである。経島に御鎮座の由来を尋ねるに、神代の昔素盞鳴尊の御子神天葺根命(又天冬衣命と申す)清江の浜に出ましし時、島上の百枝の松に瑞光輝き『吾はこれ日ノ神なり。此処に鎮まりて天下の人民を恵まん、汝速に吾を祀れ。』と天照大御神の御神託あり。命即ち悦び畏みて直ちに島上に大御神を斎祀り給うたと伝う。
 又『日の出る所伊勢国五十鈴川の川上に伊勢大神宮を鎮め祀り日の本の昼を守り、出雲国日御碕清江の浜に日沈宮を建て日御碕大神宮と称して日の本の夜を護らん』と天平七年乙亥の勅の一節に輝きわたる日の大神の御霊顕が仰がれる。かように日御碕は古来夕日を銭け鎮める霊域として中央より幸運恵の神として深く崇敬せられたのである。
 そして、安寧天皇十三年勅命による祭祀あり、又第九代開化天皇二年勅命により島上に紳殿が造営された(出雲国風土記に見える百枝シギ社なり)が、村上天皇天暦二年前記の如く現社地に御遷座せられ、後「神の宮」と共に日御碕大神宮と称せられる。
(2)神の宮
 神の宮は神代以来現社地背後の『隠ヶ丘』に鎮座せられていたが、安寧天皇十三年勅命により現社地に御遷座せられ(出雲国風土記に見える美佐伎社なり)後「日沈宮」と共に日御碕大神宮と称せられる。
 隠ヶ丘御鎮座の由来は、神代の昔、素盞鳴尊出雲の国造りの事始めをされてより、根の国に渡り熊成の峯に登り給い、柏の葉をとりて占い『吾が神魂(みたま)はこの柏葉の止る所に住まん』と仰せられてお投げになったところ、柏葉はひょうひょうと風に舞い遂に美佐伎なる隠ヶ丘に止った。よって御子神天葺根命はここを素戔嗚尊の神魂の鎮まります霊地として根の国の根源として中央より厚く遇せられ、神の宮は素戔嗚尊をお祀りする日本の総本宮として厄災除、開運の神と天下の崇敬をうけ今日も崇敬者の跡が絶えない。

御造営の沿革
 当神社は上世以来社殿の御造営二十数回、皆勅命又は将軍の祈願に依ったもので、之にても日御碕神社の御紳威の一端がうかがわれるのである。現在の社殿は日沈宮、神の宮共に徳川三代将軍家光公の命により、幕府直轄工事として江戸より工匠を特派し、着工以来十年の歳月をかけ、寛永二十一年竣工し、三百数十年の星霜を経ている。
 構造は、初期の権現造建築の優秀なることは斯界に定評あり、殊に極彩色の御内陣の天井四壁の絵は狩野派、土佐派の画匠の筆になり、華麗荘重を競って美事である。社殿の全部と境内の石造建物を含めて国家重要文化財に指定されている。


共同駐車場を出てすぐに鳥居が見えてくるこのときはまだ普通の神社風景だ。

鳥居をくぐると前に鮮やかな楼門が見えます。

楼門

境内に入ってまず目に入ってくる鮮やかな朱の楼門。出雲で初めて見た華やかさだ。京都の建物を見ている感覚だ

楼門の狛犬(木製の狛犬?が鎮座)

日沈宮の拝殿

神の宮

神の宮

拝殿と本殿

日沈宮 本殿

女神天照大御神を祭る社殿なのに男千木になっている

下の宮本殿横からの上の宮


下の宮本殿

下の宮本殿


神の宮から見た日沈宮

回廊

境内

天皇陛下御製の歌碑

境内の蛭児社


港の前からの社殿

日御碕灯台

石造り灯台としては、最高の高さ43.65m、「世界灯台100選」に選ばれている。
日御碕神社から、「ウミネコ繁殖地の経島」を見ながら灯台までの遊歩道があります。
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