出雲大社
いずもおおやしろ

官幣大社・式内名神大社
所在地
島根県出雲市大社町杵築東195

御祭神 主祭神 大國主大神 (おおくにぬしのおおかみ)
摂社祭神 須勢理毘売命 (すせりひめのみこと) 大神大后神社(神向社)
多紀理比売命 (たぎりひめのみこと) 神魂御子神社(筑紫社)
蚶貝比売命 (さきがいひめのみこと) 神魂伊能知比売神社(天前社)
蛤貝比売命 (うむがいひめのみこと)
宇治神 (うじのかみ) 門神社(東)
久多美神 (くたみのかみ) 門神社(西)
素戔嗚尊 (すさのおのみこと) 素鵞社
天穂日命 (あめのほひのみこと) 氏社(北)
宮向宿禰 (みやむきのすくね) 氏社(南)
末社祭神 宇迦之魂神 (うかのみたまのかみ) 釜  社
八百万神遥拝所 (やおよろずのかみようはいしょ) 十九社(東西二宇)
由 緒
御本殿
出雲大社は、初め天照大神が大国主大神の御功績をお慶びになり、大神のために、とくに諸神に御造営を命じられた宮殿で、最古様式の神社建築です。『出雲国風土記』には「百千足天日栖宮の縦横の御量、千尋タク縄持ちて、百結びに結び、八十結びに結び下げて、此の天御量持ちて、所造天下大神(あめのしたつくらししおおかみ)の宮造り奉れ」云々、また、『日本書紀』には「其の宮を造る制は、柱は則ち高く太く、板は則ち広く厚く」云々とあって、その建築の巨大であったことが察せられます。
 社伝によりますと、最古は御社殿の高さ三十二丈(約九十六メートル)、その後十六丈(約四十八メートル)となったといわれます。十六丈については平安時代の「口遊(くちずさみ)」に奈良東大寺大仏殿より大きかったと記されて蓋然性も高く、またこの巨大な宮制は「金輪御造営」ともいい、三本の巨木を合わせ鉄の輪で結び固めて一本の柱に仕立てて御造営されたもので、その図も伝えられています。
 平成十二年四月、現拝殿の北側でこうした御本殿の巨大な御柱が顕現しました。直径135センチの杉の巨木三本を束ねて一本の御柱とした状態で、出雲国造千家家伝承の「金輪造営差図」に描かれた通りでした。この御柱は、御本殿の正面側中央の宇豆柱(棟持柱)に相当します。さらに、その後の調査で、御本殿内中央の心御柱(岩根御柱という。)、南東側柱も顕現し、いずれも同様に杉の巨木三本を束ね一本の柱としたものです。
 宇豆柱上面には焼土と共に祭祀用の土器、また、下部からも鉄製手斧、祭祀用土器などが出土しています。上面は御造替前の旧となる御本殿の地の清美に伴う、また下部は御本殿の柱立に伴うお祀りの斎行を示しています。御祭神のお住まいゆえに、ことにも御造営・御造替に祈りを深めたものと思われます。御柱に近接しては、巨大な柱を束ねるための鎹、また長さ50センチ以上にもなるかと思われます我国最大級の大釘などが出土して、巨大な御本殿の御造営の様々を明らかにしつつあります。また御柱にはベンガラが付着し、別の大釘にもベンガラ塗痕があり、その昔「八百丹杵築宮」(『出雲国造神賀詞』)と称されたことが想われます。
 こうして、「金輪造営差図」に描かれた古代の巨大な御本殿のお姿が現実のものとなり、また、平安時代の巨大建造物の順位を述べた『口遊』の「雲太・和二・京三」の”出雲太郎”伝承が史実であることを明らかにし、伝承の尊さ有難さが知られます。巨大な御柱を拝する時、目に見える形に現れた御柱ですが、そこには、目に見えず形に現れない数限りない祖祖の篤い祈りがあります。巨大ゆえに年を経て倒れても倒れてもなお繰り返し繰り返しお住まいの巨大な御本殿を御造営させていただいたミシルシの御柱は、誠に深厚な祈りの証であり象徴です。
 なお、調査区では四世紀頃の赤めのうの勾玉、滑石の勾玉・臼玉、祭祀専用品のおちょこ様の手捏土器などの祭祀遺物が出土しており、境内地に於いて、すくなくともこの頃より、お祭りが行われていたことが明らかとなりました。このことも重要なことです。また、巨大柱検出の上層面よりは基壇造成した中に円形の掘り込みを行い根固めの礫石を詰めた跡が検出されました。横に三カ所並び、この上に礎石を据えて柱立したものと思われますが、礎石は取り出されて残っていませんでした。御本殿が礎石建物となるのは、近世はじめの慶長十四年(1609)の御造営遷宮からですが、これは、この慶長御造営御本殿の正面の宇豆柱と左右の側柱の跡と推定されます。
 こうして境内地では、歴世の祖祖の祈りのみ跡が次々と明らかにされました。斉明天皇の御代(655-661)、今日のように高さ八丈(約二十四メートル)、方六間(約10.9メートル)四面の宮制となり、以来これを正殿式といい、これに満たないものを仮殿式というようになったと伝えられます。宝治二年(1248)の御造営遷宮までは主として正殿式御造営がお仕えされましたが、その後、弘安五年(1282)の御造営遷宮以後、慶長十四年(1609)の御造営遷宮に至る約三百三十年間は仮殿式でお仕えされました。しかし、寛文七年(1667)の御造営以後は正殿式に復し、延享元年(1744)に御造営遷宮し、文化六年(1809)、明治十四年(1881)、昭和二十八年(1953)には修理を加えて今日に至っています。この様に御社殿の規模は長い間に変遷を遂げていますが、古今を通じて日本第一の宮殿の様相を失わず、古くから「天下無双の大廈、国中第一の霊紳」(『在庁官人解状』)と称されたのです。
 御本殿の構造は、いわゆる「大社造」の典型です。平面プランは正方形、屋根は切妻、殿内へは妻入り、高床で縁が四周を廻り、妻側が梁間が正面(南面)になっています。
 御本殿を形づくる御柱は周囲に八本で桁行、梁間共に二間です。御柱はすべて円柱で、現在は礎石の上に立っていますが、近世に至るまでは根元を土中に埋めた掘立柱式でした。正面と背面の中柱は宇豆柱といわれ、その柱心は隅柱の柱心よりやや外に出ています。正面中央にこの宇豆柱があるため、御扉はその柱の向って右側に偏在しています。正面向かって左側は蔀戸になっています。側面及び背面はすべて板壁です。
 殿内の中心には心御柱(岩根御柱)とよぶ太柱があり、この心御柱の向って右側の側柱との間は、板壁となって殿内が仕切られ、この壁の奥に御内殿(御紳座)があります。御紳座は正面には向かわせられず、横向き(西面)に御鎮座されています。御本殿桧皮葺の屋根には現在、多少の反りがついており、棟には千木と勝男木三本とがのせてあります。また高欄のついた縁は御本殿の四周をめぐり、正面の御扉前の縁先には、木階十五段があり、この階段の部分には、向拝とよぶ屋根がかけられています。しかし、古くは向拝はなかったようです。
 こうした今の御本殿は、細部の天に後の時代の影響を受けた部分もありますが、基本的な構造には古代の様式が保たれており、日本の家屋建築の原型を知る上で非常に貴重な建造物です。昭和二十七年(1952)三月二十九日、国宝に指定されました。
     -出雲大社由緒略記より-


出雲大社 公式ホームページ


二の鳥居

ここからは、徒歩での参拝になります。

二の鳥居から一の鳥居を見る門前町があり、旅館等の店が並んでいる。早朝で雨の影響か、人影はありません

砂利道の参道

多くの人がここを歩くためか砂利移動防止用の網が敷かれていた。そのためかすごく歩きやすかった。

参道横の祓戸社

荒垣の外からの風景

手前左には、手水舎荒垣の奥には大きな注連縄と拝殿が見えます

手前の御神像

「因幡の白兎」の神話の1場面かな

銅鳥居から見た拝殿

拝殿

注連縄の大きさが目を引く出雲の神社での特徴なのか、奈良以外の神社をあまり見ていないのでわからないが、この注連縄に興味を持った。

拝殿横からの本殿

八足門

本殿に一番近い参拝所早朝にもかかわらず熱心に参拝している人がいました。荒垣内をゆっくり見て回った後(30分くらい)まだいてました。長時間のお願い事には、早朝に限りますね。

八足門越しの本殿

後ろに少し楼門が見えます

観祭楼(かんさいろう)

八足門の右側

拝殿左横からの社殿

拝殿の後ろ側

古代神殿心御柱の模型を発掘場所に展示、柱跡が八足門の前に図示されています。

発掘された宇豆柱(うづばしら)

「古代出雲歴史博物館」に展示


西 十九社

釜社と東十九社

本殿

後方からやっと本殿が見えた。

巣鵞社(そがのやしろ)

本殿の真後ろに隠れるように鎮座。御祭神は素盞鳴尊

巣鵞社から見た本殿

文庫

氏社と西十九社
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