熊野大社
くまのたいしゃ

旧社格 国幣大社・式内名神大社
所在地
島根県八束郡八雲村熊野2451

御祭神 主祭神
伊邪那伎日真名子加夫呂伎熊野大神櫛御気野命
(いざなぎのひまなこかぶろぎくまののおおかみくしみけぬのみこと)

上記神名は 素戔嗚尊 (すさのおのみこと) の別名
摂社祭神 伊邪那美命 (いざなみのみこと) 伊邪那美神社
櫛名田比売命 (くしなだひめのみこと) 稲田神社
足名推命 (あしなづちのみこと)
手名推命 (てなづちのみこと)
末社祭神 宇迦之御魂 (うかのみたまのかみ) 稲荷神社
不詳 荒神社
由 緒
御由緒
 『古事記』(712)、『日本書紀』(720)は、スサノオノミコトが八岐大蛇退治された後に、「吾が心すがすがし」と申されて宮殿を営まれた処を『須賀』と記し、また「熊成峯に居し」とも書いている。更に『出雲国風土記』は、「熊野山、所謂熊野大神の社坐す」と記している。創祀は斉明5年(659)と『日本書紀』に伝える。
 この熊野山は現に ”元宮ヶ成”と称しており、古代祭祀の巨大な磐座がある。すなわち、「熊成峯」・『元宮ヶ成』とは聖地の尊称であり、共にカミが顕現された処を表現していると云えよう。熊野大社の元々の宮地は、清浄な山であって意宇川の源流もここにある。 この「熊成峯」・『元宮ヶ成』に熊野大神の創祠がある。古い世から信仰は広まり、常に杵築大社(出雲大社)より神階が上位にあったことからしても、如何にその御神威が尊貴であり、御紳徳が広厚であったかを知ることが出来る。 『延喜式神名帳』のなかで特に「大社」の称号を負う神社は稀であることによっても、出雲という僻陬の地に坐しながら「熊野大社」と敬仰される程に由緒は深遠である。 然しながら、社運の衰微によって中世に至ると、上の宮を熊野権現と拝し、下の宮を伊勢宮と敬して二社祭祀の形態に造営された。このため、かえって祭祀と尊崇に複雑な変化と混乱を見た。更に、戦国時代には兵火によって社殿及び記録のすべてが鳥有に帰し、その後は仮殿を営んで明治に至ったことは残念はことであった。
 明治4年(1871)の神社制度の改正によって『国幣中社』に列せられたのを機に、現今の社地に神域を整備して上の宮と下の宮とを合祀して造営が進められ、同41年に造営はなった。大正5年(1916)に『国幣大社』に仰出され、同8年には修理、神域拡張を行い、昭和23年(1948)及び53年には修理造営して社頭は面目一新した。しかし、往古の結構は再興されていない。常に御神威を歴史の上に顕現された熊野大神の御紳縁に結ばれている氏子崇敬者は、神意を恭畏して復興を念じつづけている。
     -由緒略記より-


出雲の国一宮 熊野大社 公式ホームページ


駐車場からの景観

さざれ石

朱色の八雲橋がアクセントになって参道が引き立っています。

神社案内板

随神門と社殿

狛犬

どういうわけか素盞鳴尊を祀っているところでは狛犬の後ろ足がピンと伸びている。

髄神門

髄神門・拝殿の注連縄の巨大なこと

正面からの拝殿

社務所前からの社殿

本殿の屋根がどうにか見えるが、それでも大きい。

本殿

やっと姿が見えた

鑽火殿(さんかでん)

御祭神スサノウノ大神は「檜の臼・卯木の杵」で火を鑽り出す法を教えられた。熊野大社は「日本日出初社」とも讃えます。
出雲国造(出雲大社宮司)は、大神の霊幸い給う紳器の燧臼・燧杵を拝載し、鑽火して「火継=霊継」の式を仕えなければ、その職を襲職することが出来ません。大神の霊威を戴き紳性国造となります。
この鑽火殿はその古伝由緒を伝える建物であり、紳器が奉安してあります。
毎年十月十五日の鑽火際は古来からのしきたりの重儀であり、出雲国造が紳器を拝載するために参向して神人の神歌・琴板によって榊舞百番を納めて神慮一体の祝寿をします。これに先立って特殊な”亀太夫神事”が奉仕されます。
-立て札よりー


舞殿

伊邪那美神社

鑽火殿まえから
inserted by FC2 system