葛木火雷神社
かつらぎほのいかずちじんじゃ

旧社格 郷社・式内名神大社
所在地
奈良県葛城市笛吹448(奈良県南葛城郡忍海村笛吹字神山)

御祭神 主祭神 火雷神 (ほのいかづちのかみ)
天香山彦命 (あめのかぐやまひこのみこと)(笛吹連ノ祖)
配祀神 高皇産霊神 (たかみむすびのかみ)
大日孁貴尊 (おおひるめむちのみこと)
瓊々杵尊 (ににぎのみこと)
末社祭神 伊古比都幣命 (いこひとへのみこと) 為志神社
綾羽八重事代主命 (あやはやえことしろぬしのみこと) 都波神社
伊邪那美命 (いざなみのみこと) 熊野神社
宇迦之御魂神 (うかのみたまのかみ) 稲荷神社
火須勢理命 (ほすせりのみこと) 空室神社
火明命 (ほあかりのみこと)
彦火火出見命 (ひこほほでみのみこと)
香霊貴命  梅室神社
素戔嗚命 (すさのおのみこと)
大山咋命 (おおやまくいのみこと)
天児屋根命 (あめのこやねのみこと) 春日神社
天于須女命 (あめのうずめのみこと) 森本神社
市杵島姫命 (いちきしまひめのみこと) 浅間神社
神吾田葦津姫命 (かむあたあしつひめのみこと)
忍兼神 (おもいかねのかみ)
由 緒
當神社ハ元火雷神社ト笛吹神社ノニ社ナリシヲ延喜帝以前ニ合祀セラレタリ上古来朝廷大事ヲト定セラル毎ニ笛吹神社ヨリ波波迦木ヲ進献スルヲ倒トセリ
火雷神ハ火産霊神トモ火之迦具神トモ奉申リ火ヲ主宰シ給フ神ニシテ此大神ハ宮中大膳職及伊勢神宮ノ菓餅所ニテ奉斉セラル御同神ニシテ菓祖ノ大御神ナリ。天香久山命ハ石凝姥命トモ奉申リ
天照皇大神天岩屋戸ニ籠リ坐セル時天香久山ノ天波波迦木又竹ヲ切リ取リ笛ヲ造リ吹鳴シ亦金ヲ堀リ八咫鏡ヲ鋳造シ皇祖ニ奉リ大御心ヲ慰メ奉リシ神ニ坐シテ音楽及鐵工業ノ祖神ニシテ此ノ御鏡ヲ伊勢神宮ノ御神体ト奉仰ルモノナリ  高皇産霊神 大日孁貴尊 瓊々杵尊ハ皆皇祖ノ大神ニ坐シ伊古比都幣命ハ御食都神ニテ所謂衣食住ノ神ナリ
御鎮座ハ神代ト云ヒ神武天皇ノ御代ト謂ト誰モ詳ナラズ社家持田家ノ家譜ニ崇神天皇ノ御代ノ十年建埴安彦兵ヲ挙ゲテ帝都ヲ襲ハントス仍テ大彦命ハ笛吹連櫂子等ヲ率ヒ奈良山ニ於テ安彦ニ軍ト戦ヒテ和韓川ノ南ニ於テ櫂子ノ射放チタル矢ハ安彦ノ胸ヲ射貫キ之ヲ斃ス故ニ賊軍降テ平定ス依テ櫂子ノ戦功ヲ賞シテ天磐笛及笛吹連姓ヲ給フ其ノ夜天皇ノ御夢ニ此ノ磐笛ヲ以テ瓊々杵尊ノ神霊ヲ祭レバ国家安寧ナランコトニヨリ當社ノ相殿ニ奉祀セラルタルト有レバ崇神天皇御宇以前ノ古社ニシテ地誌其ノ他ノ古書 笛吹神社トアルハ所謂是也
皇室ノ御尊崇最モ厚カリシ官幣大社ニシテ延喜式ニ名神大月次相嘗新嘗ト載セラレ毎年数度ノ案上官幣ニ預リ給ヒシ神社ニテト事ニ用フル波波迦木ヲ奉ル等皇室トノ関係モ亦深カリシ事ヲ拝察シ奉リ得ルナリ
      -境内の案内板より-

葛木坐火雷神社 二座
笛吹集落の西方、葛城山東の尾根の端に鎮座の社を、式内名神大社にあてられている。主神に火雷大神と天香山命の二座を、相殿に大日霊貴命・伊古比都幣命(元為志神社祭神)・瓊々杵尊・高皇産霊神を祀る。『三代実録』貞観元年(859)正月二十七日、正三位勲二等から従二位に昇叙されている。『延喜式』神名帳では、忍海郡三座中名神大社二座として登載され、二座とも祈年祭の外、名神祭・月次祭・新嘗祭にも官幣に預る古代の名社であった。ところが以後記録も全く絶えて衰微したことは「大和志」に、笛吹村笛吹神祠の傍にありとあることでもわかる。明治七年火雷社を笛吹社へ合祀、葛木坐火雷神社と改称、郷社となった。
 火雷紳は「日本書紀」にあるように、黄泉国で伊邪那美命の形骸が腐欄して蛆虫がたかっていた時、その胸にいた神で八雷神の一である。天香山命を当社に祀るのは、『姓氏禄』河内国神別に、笛吹連は火明神の後で、その一族吹田連は火明命の子天香山命の後裔とあることに関連するのでなかろうか。
 神社の後方に古墳があり、笛吹古墳群が続いている。これを古代笛吹氏の墓とし、鎮魂・卜巫に関与したと考えられる笛吹氏が、自らの租紳の社として当社を創始したとの説もある。社務所の位置に、神宮寺上の坊があったが、『大和志』に、「僧舎在り、名は上之坊、大般若経あり、跋に曰正応元年八月願主僧実胤」とあるように神仏習合の姿を示している。
 南花内・薑・新町の笛吹若宮神社は、当社の分霊を勧請して奉斎した社である。

  笛吹神社
笛吹集落の西、葛城山東麓に伸びる標高約150メートルの尾根の端に鎮座する旧郷社。『延喜式』登載の名神大社葛木坐火雷神社と同位置同紳祠に鎮座するが、火雷社と笛吹社が本来同一の社であったか並存していたか、あるいは笛吹社の前身が火雷紳であるか否かも明らかでない。
当社のすぐ後方に笛吹神社古墳があり、付近はかって火雷大神・天香山命の後裔笛吹連の本貫地と称されて、その租紳を祀ったのが、古墳と神社の関係を考えさせる好事例といえる。中世以後式内社の所在を失ったが、『大和志』は「在笛吹村の笛吹の紳祠の傍」と記し、式外笛吹紳祠として「笛吹村十四村民家相共祭典」と記している。式内社は全く衰微して笛吹社の末社となるに至った江戸中期ごろの様相が知られる。
 明治三年神主持田篤延は小祠となった式内社を確認『二社同所』といっている。その後明治七年、火雷社を笛吹社へ合祀。
     -奈良県史(神社)より-


由緒略記

境内の紅葉

境内の紅葉

拝殿

境内の紅葉
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