高貴寺
こうきじ

史跡 高貴寺境内
所在地
大阪府南河内郡河南町平石

由 緒
史跡 高貴寺境内

昭和十八年八月二十三日、大阪府古文化記念物等保存顕彰規定により史跡指定
所在地 南河内郡河南町平石
伝えるところによれば文武天皇の御代役行者が法華経二十八品に配して葛城山の峯峯に開いた二十八霊場の内、当寺は第二十五品の観音経普門品に配当されるものであった。
仏に供養する香花(コウゲ)が四季絶えなかったので香花寺と名付けられたといわれているが、香花は神下とも書かれるから別個の意味を有しているかもわからない。
嵯峨天皇の弘仁年間には弘法大使が勅命を奉じて堂塔を建立し、そのあと当寺はその弟子の智泉大徳に譲与されたとされている。下りて元弘年間、当時の宗徒は南朝に属したが笠置山陥落後関東方は寺の西方なる楠木の支城平石城に拠平石氏を攻めるに際して当寺の伽藍も灰燼に帰し、自後数百年に亘って法燈振るわなかった。安永年間に至って一世の大徳慈雲尊者が当寺に留鍚し、以来約三十年に及んだ。
かくして皇室の御帰依を蒙り、また徳川幕府から正法律高貴寺一派総本山たる許可を得るところとなった。尊者は伽藍を修築し、旧観復興したので尊者をもって当寺中興第一世とせられている。その学は、和漢、梵に通じ梵学の造詣に至っては比肩するものはなく、梵学梁一千巻の大著述がある また神道を究明して葛城神道を興し、十善の道を説いて十善法語十巻を著している。桃園天皇の御帰依を受けまた郡山藩主柳沢保光公法弟子となり各宗の僧侶も来て教えを仰ぐなど上下の学信が篤かった。
現在の寺堂としては、金堂、講堂、開山堂、奥の院の御影堂などがあり、それぞれ五大明王像、辯財天像、慈雲尊者像、弘法大使像などが安置せられている。御影堂側には、慈雲尊者の墓塔たる五輪塔があり、金堂の側後には、重要美術品の石造十三重塔、石造宝篋印塔などがあり、本堂前には応永二年(一三九五)在銘の石造燈篭がある。
なお同地の磐船神社はもと高貴寺の鎮守であったが明治初年の神仏分離によって高貴寺から離れた。
     境内の案内板より


境内入口

境内の石塔

境内の石塔


本堂

十三重石塔

鎮守社

境内
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