片岡神社
かたおかじんじゃ

旧社格 郷社・式内名神大社
所在地
奈良県北葛城郡王寺町本町2丁目6

御祭神 主祭神 天照大神 (あまてらすおおみかみ)
表筒男命 (うわつつのこのみこと)
中筒男命 (なかつつのこのみこと)
底筒男命 (そこつつのこのみこと)
品陀別命 (ほんだわけのみこと)
清滝大神 (せいりゅうおおみかみ)
末社祭神 倉稲魂命 (うかのみたまのみこと) 賢岡神社
門部王命 (かどべのおおきみのみこと) 大原神社
中筒男命 (なかつつおのみこと) 住吉神社
天児屋根命 (おめのこやねのみこと) 金計神社
由 緒
古くは元町大峰の東北単に鎮座していたそうです。「新抄格勅附抄」に大同元年(西暦806年)のこととして片岡神神戸(封戸、昔神領に付属しての租、庸、調を神社に納めていた農民)のことが出ているそうで、その頃概にこの神社が成立していたことを示している。また、「三代実録」には、貞観元年(西暦859年)正月、正五位下に昇叙されたことが出ています。この社は、法光寺の鎮守社ともいわれ、本殿向かって左方には大原神社、金計神社ほか計四社が祀られています。社伝によると風雨の神として尊信せられ正暦五年(西暦994年)には、疫病や天変地異が続いたため、中臣氏人が宣命使となって救済を祈願して奉幣したといわれています。
          -境内案内板より-

旧郷社。天照大神・表筒男命・中筒男命・底筒男命・品陀別命・清流大神を祀る。「延喜式」神名帳葛下郡「片岡坐神社(名神大、月次新嘗)」にあてられ、以前は王寺町本町の小字大峯に鎮座したと伝える。式内片岡坐神社は大同元年(806)大和に七戸、遠江に八戸、近江二十五戸の紳封を当てられ(新抄格勅符抄)、天安三年(859)一月二十七日に正五位下に昇叙、同年(貞観元年)九月八日風雨祈願のための奉幣を受け(三代実録)、祈雨紳祭にもあずかった(延喜式)。「本朝世紀」によると正暦五年(994)四月二七日に疫病・天変災異多発のため、中臣氏人が宣命使となって救済を祈願し奉幣されている。新羅の使節入朝の際には酒稲料五〇束があてっられた(延喜式)。
 当社は俗に大宮と称し、応仁二年(1468)の棟札には「片岡坐五社大明神」とみえる。西方の放光寺(片岡王寺、現王寺町)の鎮守とする説もあり、放光寺古今縁起(王寺町有文書)に鎮守三所として「南御殿長尾五所(葛下郡惣社振別ナリ) 中御殿八幡三所(源氏宗廟大菩薩) 北御殿地主御霊(大原氏神ナリ北社)」とみえる。この三所は葛下郡惣社長尾社(現奈良県當麻町)の流鏑馬をめぐって争論があった時、諸郷が長尾社から離れ、天仁元年(1108)放光寺・当麻氏などにより清水寺(不詳)に長尾社を分社勧請、八幡神・大原神を合祀、畠田村(現王寺町)、放光寺講堂裏と移って、仁平元年(1151)同寺食堂北裏に移したという。この鎮守三所が当社の事と考えられている。大原氏神は現在当社境内摂社の大原神社である。旧社地と伝える大峯の北東端、通称トミヤには榊の巨木が立つ神域があり、当社宮座も大峯にのみ残る。神社北東の融通念仏宗岩松寺に当社に奉納された徳川期の大般若経を収蔵し、品善寺に旧本地仏の十一面観音菩薩立像を安置。
     -寺院神社大辞典(大和・紀伊)より-

神社全景
境内

王寺小学校のグラウンドと地続きになっていて、グラウンドの端を通る形で参拝をする。
神社入口
神社入口
鳥居と境内
鳥居から境内
境内
境内

正面が拝殿で、左は境内社の拝殿のようです。
狛犬(左) 狛犬(右)
鳥居横の狛犬
本殿
本殿
境内社
境内社
境内末社 境内末社
賢岡大明神

新しい社殿になっている。

修復前の社殿

2005年撮影
修復中の社殿
解体修復中の社殿

2007年12月撮影
修復中の社殿
解体修復中の社殿
修復中の社殿(本殿)
解体修復中の社殿

本殿
修復中の社殿(境内社)
解体修復中の社殿

境内末社
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