三十三間堂
さんじゅうさんげんどう
所在地
京都市東山区三十三間堂廻町

御本尊 十一面千手千眼観世音 (中央の中尊と左右500体、合計1001体の千手観音)
由 緒 
長寛2年(1164)鳥辺山麓(現・阿弥陀ヶ峯)の後白河上皇・院政庁「法住寺殿」の一画に平清盛が造進した。約80年後に焼失したが、すぐに復興に着手し文永3年(1266)に再建された。その後、室町・桃山・江戸そして昭和と4度の大修理により700年間保存されている。長いお堂は和様の入母屋・本瓦葺きの「総檜造り」で約120メートル。正面の柱間が33あることから「三十三間堂」と通称され、堂内には1001体もの観音像がまつられる。また、見落としがちだが境内・南の通称「太閤塀」と呼ばれる築地塀と南大門は、ともに豊臣秀吉ゆかりの桃山期の気風にあふれた重文・建造物である。


蓮華王院 本坊
(三十三間堂)

通し矢
慶長(1596-1615)頃から、三十三間堂の南端から北端の的に向かい六六間を矢で射通す通し矢が盛んとなった。由来は「都名所図会」に『新熊野観音寺の別当梅坊射術を好みて八坂の青塚の的場へ通う帰りに当寺の講堂に休み射初し也』とあり、『近世武家射芸の者初度毎に此の堂に登り暁自暮に至て矢を放つ其の数一万に至る』という賑わいで(雍州府志)、優勝者には妙法院から証明が出された(都名所図会)。ちなみに慶長11年1月9日、清須(現愛知県春日町)松平家中の浅岡(朝岡)重政は51筋を射通して天下一となり(慶長見聞集遺漏分)、以後も毎年のように記録は更新されたが、これらは洛中洛外図屏風(逸翁美術館蔵)に描かれている
-寺院神社大辞典より-

側面

庭園

正面入り口

奥からの全景

裏側(構面)

境内の稲荷社
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