岡田国神社
おかだくにじんじゃ

旧格式 郷社・式内小社
所在地
京都府木津川市木津大谷100

御祭神 主祭神 生国魂尊(いくくにたまのみこと)
菅原道真公(すがわらみちざねこう)
相祭神 応神天皇(おうじんてんのう)
神功皇后(じんぐうこうごう)
比咩神(ひめかみ)
摂社祭神 大国主命(おおくにぬしのみこと) 恵美須神社
事代主命(ことしろぬしのみこと)
末社祭神 熊野久須日之命(くまのくすひのみこと) 八王子神社
市杵島姫命(いちきしまひめのみこと) 厳島神社
須佐之男命(すさのおのみこと) 天王神社
速秋津姫命(はやあきつひめのみこと) 水谷神社
天忍穂命(あめのおしほのみこと) 日出神社
由 緒
創祀概略
岡田国神社の創祀は遠く飛鳥時代、斉明天皇の白雉五年(654)に生国魂尊を祀ったのが始まりと伝えられています。後年、境内敷地を発掘調査したところ、奈良時代前後の土器などはもちろん、はるか一万三千年前の石器までもが多数出土しました。
 奈良・平安時代に編纂された六つの官撰国史の一つ「三代実録」によれば、清和天皇の貞観元年(859)、岡田鴨神社(従五位下)、岡田国神社(従五位上)奉授とあります。また平安時代、醍醐天皇の勅命により編纂された「延喜式」では、月次新嘗大社に列せられています。明治六年五月、郷社に列せられ、同十一年三月には「延喜式」内岡田国神社として確定されました。
 応仁天皇を祀った八幡宮の創始は天慶元年(938)丁酉十一月と伝えられています。平安時代に入り、天神信仰が高まりつつあるのに従って菅原道真公を合祀。以後は天神宮と称され、木津郷五カ村の氏神として信仰を集めながら今日に至っています。また明治九年には四十一番地よりそれぞれ遷宮され、現在の当神社の姿が出来上がりました。その名前は、「登院毎日雑記」の応永三十五年(1428)正月にも見出すことができます。
     -神社由緒書きより-

一の鳥居
一の鳥居

ここからは神社専用の参道です。
JRの線路の上に立派な橋が架けられている。
境内全貌
参道から境内に入った所です
拝殿
拝殿

左手前は、座直会殿
本殿
本殿
本殿と境内社
本殿と境内社

透塀越しの撮影です
社殿
座直合殿
額
境内に掛かった由緒書
旧社殿(1)
旧社殿

社殿等由来
 旧本殿は安永三年(1774)十一月、同拝殿は元和六年(1620)五月に再建されたものです。旧本殿は現在空殿になっていますが、境内に能舞台を中心にした拝殿、南北氏子の詰所が配置された構成は京都府南部の相楽郡地域に伝わる社殿配置形態であり、山城地方における室町時代の惣の社の姿を伝える重要な遺構です。岡田国神社は現在もこの形式が保存されている希少な神社として、昭和六十三年四月十五日、京都府登録文化財に指定されました。
 さて、当神社の背後には広大な山林所有地が広がっています。この土地は徳川家康公より拝領したものとして、その由来が伝えられています。それによると、天正十年(1582)六月二日、本能寺の変により泉州堺の徳川家康公が急遽、領国である三河へ向かったものの、田辺町草内飯岡付近で主従ともに身の危険を感じ、ここより木津川西岸を上って木津に到着。その地の天神社にて休息し、神主にそこから先の道案内を頼みました。神主は息子二人に道中の食料の手配をさせながら、現在の国道163号線を東へ、島河原正月堂多羅尾の代官所まで案内し、主従は無事に三河へたどり着くことができたといいます。その後、慶長三年(1598)に豊臣秀吉が死去し、天下をわがものとした家康公は同九年(1604)、京都所司代板倉伊賀守をつかわして社号等お改めの上、堺脱出時の天神社神主の功績に対する褒賞として、十一万坪の土地を当神社に下付。ついで元禄十年(1697)、境内の山林、社領が下付され、これが当神社の財産として現在に至っているのです。昭和四十九年十一月、日本住宅公団の求めに応じて社有地の一部、二万五千坪を売却し、旧本殿の老巧化と立地条件などを考慮した上で、これをもとに紳本殿建立を計画。従来の相殿を合わせて新御本殿とし、完成を待って昭和五十八年十月、現在地に御動座願ったものです。ちなみに、本神社参道は専用跨線橋になっていますが、これは全国でも他に例のないものです。
―神社由緒書きより-
旧社殿(2)
旧本殿

新境内よりの撮影です。
社殿改装記念石碑
昭和造営記録の石碑

しょうわよんじゅうはちねんに日本住宅公社に山林を売却して、新社殿を建設した記念碑です
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