網野神社 あみのじんじゃ | |||
府社・式内社 | |||
所在地 | 京都府京丹後市網野町網野789 | ||
御祭神 | 主祭神 | 水江浦島子神 (みずのえうらしまこのかみ) | |
住吉大神 (すみよしおおかみ) | |||
日子坐王 (ひこいますのみこ)(水江日子坐王) | |||
末社祭神 | 大宜津比賣神 (おおげつひめのかみ) | 蚕織神社 | |
天棚機姫神 (あめのたなばたひめのかみ) | |||
天照大神 (あまてらすおおみかみ) | |||
和久産巣日神 (わくむすびのかみ) | |||
稚産霊神 (わかむすびのかみ) | 立脇神社 | ||
天湯河板拳命 (あめのゆかわたなのみこと) | 早尾神社 | ||
火産霊神 (ほむすびのかみ) | 愛宕神社 | ||
市杵島比女命 (いちきしまひめのみこと) | 市杵島神社 | ||
由 緒 | 由緒沿革 当社は縁起式内社であるので創立は十世紀以前とみられています。元々は、三箇所に御鎮座されていたものを享徳元年(1452)九月に現在の社地に合併奉遷されたと伝えられています。現在の網野神社の本殿は一間社流造で、大正十一年に建てられたものです。拝殿は入母屋造の正面千鳥破風と軒唐破風付です。こちらも大正十一年に本殿と同じくして、建てられましたが、昭和二年の丹波大震災の被災により、昭和四年に再建されました。 平成二十一年八月には網野神社本殿、拝殿、蠶織神社社殿など八棟の建造物が国の登録有形文化財に登録されました。 日子坐王(ひこいますのみこ) 水江日子坐王(みずのえひこいますのみこ) 日子坐王は第九代開化天皇の皇子とされており『古事記』の中ッ巻、第十代大崇神天皇(日子坐王の兄にあたる)の御代に日子坐王は丹波の国(古くは丹後も丹波の国に含まれていました)に派遣されて土蜘蛛の首領「玖賀耳之御笠」を誅したとあります。 また、後の丹後地域でみても日子坐王は網野神社、丹後町の竹野神社などに祀られ、さらには網野銚子山古墳の主ではないかとも伝えられています。 住吉大神(すみよしおおかみ) 伊邪那岐神の禊の時になった表筒男命・中筒男命・底筒男命の三紳を住吉大神と申し上げます。神功皇后の新羅遠征を守護したことから、特に海神として尊崇されています。また、網野神社の住吉大神の縁起には、古代に日本海経由で来着したという説や近世になって河田金衛門が泉州堺(現在の大阪府堺市)から勧請したという説などがあります。 水江浦島子神(すみのえうらしまこのかみ) 水江浦島子神は、かって網野村字福田の園という場所に暮らし、毎日釣りを楽しんでおられましたが、ある時、海神の都に通い、数年を経て帰郷されました。今日まで伝わる説話や童話で有名な[浦島太郎さん]は、この水江浦嶋子神が、そのモデルとなっています。 | ||
神社入口 | |||
狛犬 | |||
境内の参道 | |||
狛犬 | |||
拝殿 | |||
本殿 | |||
社殿 | |||
蠶織神社(こおりじんじゃ) | |||
蠶織神社(こおりじんじゃ) 御祭神 天照大神(あまてらすおおみかみ) 天棚機姫大神(あめのたなばたひめのおおかみ) 和久産巣日神(わくむすびのかみ) 大冝津比売神(おおげつひめのかみ) 大正14年(1925)4月、丹後縮緬(たんごちりめん)同業組合竹野郡支部と竹野郡蚕糸(さんし)同業組合の関係者が協議して、本郡に織物(おりもの)の神(天照大神と天棚機姫大神)と養蚕(ようさん)の神(和久産巣日神と大宜津比売神)を奉祀(ほうし)することになり、竹野郡の中心網野町の網野神社に奉斎(ほうさい)しました。(時の府知事の斡旋もあって)織物神は京都紫野今宮神社御分霊を、養蚕神は皇居の紅葉山の養蚕神の御分霊を勧請(かんじょう)して合祀(ごうし)し、社名は大正天皇の皇后様である貞明皇后(ていめいこうごう)のお言葉のまにまに「蠶織神社(こおりじんじゃ)」と定められ、4月15日に網野町民、郡内養蚕業者数千人が参列し、盛大な鎮座祭が斎行されました。今日に至っても、毎年4月の中頃には織物業に携わる方々が中心となって、産業の振興と発展を祈願する盛大な神事が執り行われております。 現在の蠶織神社の社殿は、天明2年(1782)に建立されたもので、一間社流造(いっけんしゃながれづくり)の社殿の各部には江戸時代中期の匠による賑やかな彫刻が目を引きます。 蠶織神社は、その由緒に皇室とのご縁が非常に深いため、社紋は「菊」と「桐」になっており、社殿の棟にもそれらの社紋があしらわれております。大正11年(1922)に現在の網野神社の本殿と拝殿が新築されるまで、こちらが網野神社の本殿として崇敬されてまいりました。 | |||
蚕織神社 | |||
早尾神社(はやおじんじゃ) 御祭神 天湯河板挙命(あめのゆかわあたなのみこと) 『日本書紀』の垂仁天皇(すいにんてんのう)記二十三年には、「第十一代垂仁天皇の皇子誉津別王(ほむつわけのみこ)は三十歳になられても言葉をお話しになりませんでした。ある日、王が大空を飛ぶ白鳥をごらんになられて、『あれは何か』とお生まれになって初めてものを仰いました。その様子を父君である垂仁天皇はたいそう喜ばれて、天湯河板挙(あめのゆかわたな)にその白鳥を捕らえてくるようにお命じになられました。そこで湯河板挙は但馬國[(たじまのくに)(一説には出雲國)]まで追って白鳥を捕らえ、これを天皇の御前に献じました。それから王はこの白鳥と遊ぶうちに言葉を話されるようになられたのです。この功績を讃えられ、天湯河板挙には鳥取造(とっとりのみやつこ)の姓(かばね)を下賜されました。」とあります。 こうしたことから、早尾神社は病気平癒の御神徳があり、古くから人々より篤く信仰されております。 また、この地域には天湯河板挙が白鳥を捕らえる際、松原村(網野の古い地名)の水江に網を張ったことから、松原村は網野といわれるようになったとの言い伝えもあります。 |