宇治上神社
うじかみじんじゃ

旧社格 村社・式内小社
(世界文化遺産)
所在地
京都府宇治市宇治山田59

御祭神 主祭神 応神天皇 (おうじんてんのう)
兎道雅郎子命 (うじのわきいらつこのみこと)
仁徳天皇 (にんとくてんのう)
摂社祭神 武甕鎚命 (たけみかづちのみこと) 春日神社
天児屋根命 (あめのこやねのみこと)
末社祭神 神功皇后 (じんぐうこうごう) 香椎社
武内宿禰 (たけのうちのすくね)
上筒男命 (うわつつのおのみこと) 住吉社
底筒男命 (そこつつのおのみこと)
市杵島姫命 (いちきしまひめのみこと) 厳島社
倉稲魂命 (うがのみたまのみこと) 稲荷社
由 緒
祭神譚
中殿  応神天皇(父君)
左殿  兎道雅郎子(弟君)
右殿  仁徳天皇(兄君)
応神天皇の末の皇子、兎道雅郎子は幼くして学を好み博く典籍に通じられ、明徳なるを持って天皇素より愛され遂に立てて皇太子とされたが、天皇崩ずるに及び、太子義を重んじ敢て位につかれず、兄君、大鷦鷯尊(後、仁徳天皇)に位を譲り、宇治の地に離宮を建てられのがれられた。しかし兄君も「皇位のことは先帝の定め給うところ、今如何に軽々しく之を変える事得んや、且弟の命衆望あり速かに位につかるべし』と、為に御兄弟位を譲り合うこと三年、人民惑い、天下大いに乱れた。之を憂いて弟君「久しく生きて天下を煩わさむ」と、自ら命を絶たれ、兄君を皇位に即かせられた。時に大鷦鷯尊、兎道雅郎子薧じ給うを聞いて、驚き難波より駆せて兎道の宮に到り手厚く葬られたのである。これが後お社が創建される濫觴である。
創建
神社としての創建年代は不詳である。
現在の宇治上、宇治神社を合わせて、平安時代には、宇治鎮守明神、離宮明神、離宮社とも称され、拝殿に納める江戸時代の棟札には、応神天皇を祀る故か離宮八幡とも称されていた。『離宮』の名を冠されるについては、平安時代初期、天皇の離宮『宇治院』の鎮守社として祭られていた事からか、或は、又より古い時代の兎道雅郎子の離宮『桐原日桁宮』のあったところから由来するのかも知れない。
離宮社として文献上正確な記録の上に初めて現れるのは、治暦三年(1067)御冷泉天皇、平等院より神社に行幸の後、離宮明神に紳位を授けたとあることである。藤原氏が平等院を建立の後、その鎮守社として崇敬の実が大いに加わり、隆盛を極めていくのである。五月に斎行される祭は『離宮祭』と称され藤原氏から幣帛、神馬、乗尻を奉り、宇治辺のむらからは田楽、散楽が奉仕され、競馬十番が行われ見物の雑人、群集し喧躁を極めたことが『中右記』(藤原宗忠の日記)に詳しく記されている。いずれも平等院と密接な関係において現れ、宇治の地が鳳凰堂完成の後賑わいを極めるようになり、祭儀が整えられ、現在の本殿三社が建築されたものと思われる。
     -参拝のしおりより-


一の鳥居

神社入口付近

神門

境内から一の鳥居を見る

[国宝・拝殿]

桁行六間、梁行三間
単層切妻造 妻庇付、檜皮葺
建築年代は年輪年代測定法により、1215年と判定せられる。平安時代の住宅建築が一棟も伝わらない現在、神社建築とはいえ当時の住宅建築を推するには充分足りうる建物として注目されるもので、洗練された寝殿造住宅風の建築を彷彿とさせる。屋根の形は特に美しく、直線的で横長の建物の緊張を和らげる手法として、妻に庇をつけて、軒隅を結ぶ手法に縋破風(すがるはふう)を用いており、建築全体の印象はより水平性の勝った穏やかなものとなっている。
あまりに優美な姿からか、離宮[宇治院]の建物を下賜されたのではと云うことが伝わる。

拝殿の軒

国宝・本殿

[内殿三社(一間社流造、檜皮葺)・覆屋(桁行五間、梁行三間流造、檜皮葺)
覆屋とその中に並立して収まる内殿三社が、神社建築として日本最古の遺構である。建築年代は年輪年式測定法により、1060年と判定せられる。内殿三社は平面的に大きさ、様式が細部において、わずかながら異にする。左殿(向かって右)と右殿はほぼ同形式であるのに対し、中殿は最も小規模かつ構造も最も簡素であり、又左右両殿が構造の一部を覆屋と共通に用いるのに対して、独立の形式をとっている。内殿三社が現在まで耐え得た要素の一つとして覆屋によるところが大きい。内殿三社が平面的に大きさを異にするが、柱高だけは一致する点、覆屋を想定して建造されたと思われる。又左右両殿は、覆屋と側面、屋根を一体としているところが、特徴的な建築様式である。いずれにしても神殿は小規模であるが、つつましやかな擬宝珠をつけた昇り勾欄のやさしさ、簡素な菱格子欄間上の蟇股の脚線の優美さは正に藤原時代の好みを語るかにみえて印象的である。

本殿覆い屋

本殿横から見た拝殿

《桐原水(キリハラスイ)》

時代が室町期に入り、宇治茶が隆盛を極める様になって、茶園を象徴するものとして、「宇治七茗園」なるものが作られた。それに重なり伝えられる[宇治七名水]の一つに数えられ、他の六名水がすべて失われた現在、現存する唯一のものである。
ただ当社の場合は、お茶の水としてよりも、神詣の為の手水として、より古い時代より使用されたものである。

《重文・摂社・春日神社》

一間社流造、檜皮葺
御祭神 武甕鎚命、天児屋根命
藤原一族の守護神を祭る。平等院鎮守社である離宮社の境内に一族益々の繁栄を願い、勧請したものであろう。
建築年代は鎌倉時代と見られる。平安時代の様式の本殿、拝殿と比べると、木割の太い、どっしりした鎌倉風の力強い構成を示しており、建築様式の推移を見ることができる。

住吉社・香椎社

厳島社

武本稲荷社
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