八坂の塔
やさかのとう

霊応山 法観寺
臨済宗建仁寺派
所在地
京都府京都市東山区八坂上町

御本尊 五智如来五体(釈迦・大日・阿弥陀・阿閦・宝生)
由 緒
京都東山の代表的な五重塔。京都で五重塔といえば東寺と此処八坂の塔が有名です。

『創建』
寺伝によれば聖徳太子が如意輪観音の教示により五重塔を建て、仏舎利を納め法観寺と号したという。塔の周囲より出土した古瓦の様式が飛鳥期と推定されるので、当寺の創建時期については肯定される。この創建には古くから八坂郷を拠点としていた渡来系豪族、狛人八坂造がかかわるものと推測される。「延喜式」大膳職によると盂蘭盆供養料七寺の一つとされ、官寺として隆盛した。天暦二年(948)塔身が西に傾いたとき当寺東隣にあった雲居寺(別称八坂東院)僧浄蔵が加持してこれを復したという(元亨釈書)。「百錬抄」治承三年(1179)五月十四日条に「祇園大衆等発向清水寺、又清水寺僧合戦、相互放、堂舎人屋多以炎上、此中八坂塔為 灰燼」とあり、清水寺衆徒と祇園神人の闘争の際類焼したが、建久二年(1191)に至り住持証阿の請を受けて源頼朝が再建した(法観雑記)。
『禅刹化と山城国利生塔』
その後寺勢は振るわなかったが、仁治元年(1240)建仁寺第八世済翁証救が入寺して禅刹に改められ、霊応山法観寺と号した。証救を中興の祖とする。正応四年(1291)四月暁亡したが、(帝王編年記)、延慶二年(1309)後宇多天皇の援助を受けて山内円成禅尼が復興した。暦応元年(1338)以来、足利尊氏・直義は全国に安国寺利生塔を建てたが、山城国利生塔には当寺五重塔をあて、仏舎利を奉納した。あわせて播磨国印南荘の地頭職を寄進して同寺塔婆興隆のための供養所とし、 この間の事情を京都南禅寺僧清拙に「法観禅寺仏舎利塔記」として記させている。塔は康永元年(1342)八月住持高山栄元の尽力で補修され、夢窓捉石を大導師に迎えて盛大な供養が行われた。しかし永享八年(1436)十一月炎上(看聞日記)、同十二年四月足利義教によって再建され(永享日記)、今日に至っている。塔は飛鳥時代の礎石の上に建ち、塔の内部四方柱戸には、このとき描かれた仏画が残る。その後破損が激しかったものを、元和四年(1618)幕命により京都所司代板倉勝重が修理を監し、第一層を勝重が、他は諸国に勧進し旧形に復したという。寛文三年(1663)、寛政十一年(1799)にも修理が行われ、明治36-41年(1903-08)、大正年間にも修理された(『法観雑記』『坊目誌』など)。
     -寺院神社大辞典より-


五重塔入口

入口扉にも絵が描かれている。

中心礎石

さくの中で見ずらい

一階の周辺壁画

内側には、仏像が祭られている。

塔内部(一階部分)

芯柱二層まで登ることができます。

太子堂・薬師堂

太子堂中に聖徳太子三歳像を安置

鎮守

八坂稲荷尊天

八坂稲荷

境内に延喜式八坂墓と木曽義仲公の首塚
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