般若寺・不退寺
はんにゃじ・ふたいじ

西国薬師第3番・関西花の寺第17番札所
法性山 般若寺
真言律宗
所在地
奈良県奈良市般若寺町221

御本尊 文殊菩薩騎獅像(重要文化財)
由 緒
奈良北山の名刹、般若寺は飛鳥時代に高句麗僧慧灌法師によって開創され、そののち天平十八年(746)に至り、聖武天皇が平城京の繁栄と平和を願うため当寺に大般若経を奉納して卒塔婆を建立し、鬼門鎮護の定額寺に定められた。また平安時代は寛平七年(895)の頃、観賢僧正が学僧千余人を集めて学問道場の基をきずき、のち長らく学問寺としての般若寺の名声は天下に知れわたっていたという。ところが源平の争乱に際しては、治承四年(1180)平重衡の南都焼討にあい伽藍はすべて灰燼に帰し、礎石のみが草むらに散在する悲運に見舞われた。しかし鎌倉時代に入って般若寺は不死鳥に如く再生する。荒廃の中からまず十三重大石塔が、名も無き民衆の信仰の結晶として再建され、(建長五年頃)、続いて良恵上人が本願となって十方勧進し、金堂・講堂・僧坊をはじめとする諸堂の復興造営をはかられた。さらに文永四年(1267)には叡尊上人発願の文殊菩薩丈六大像が本尊に迎えられ、かっての大般若寺の偉容がみごとに復興したのである。それは同時に、境内の一隅に病舎を設けて孤独な病人を助けたり、布施行の大法要を営んで人生苦にうちひしがれた苦悩の衆生を剤度するなど興法利生(正しい教えを興隆して社会に奉仕する)の寺をめざす復興でもあった。
そのご般若寺は室町戦国期の戦乱による哀微、江戸期の復興、明治の排仏と幾多の栄枯盛衰を経ながらも、常に自利利他(己を高め他を助ける)の菩薩道精神を法灯にかかげ現代の復興を俟つに至っている。      -拝観のしおりより-


楼門(国宝)

鎌倉再興伽藍の回廊遺構であり、均整の取れた形と優れた意匠は楼門建築の傑作といわれる。ほとんどが和様になるが、肘木等に天竺様の影響がみられ、特に肘木鼻の繰形は類例が少ない。

十三重石宝塔(重要文化財)

卒塔婆(梵語・スツーパ)は仏舎利(釈尊の遺骨)をまつる建物で伽藍の中心である。伝、聖武天皇創建。現存の塔は建長五年(1253)頃、南宋国明州(浙江省寧波)の石工、伊行末が建立。規模の大きさ、塔婆の荘重美、みごとな四方四仏、日本の代表的石塔である。四方仏は薬師(東)阿弥陀(西)、釈迦(南)弥勒(北)の顕教四仏である。高14.11m

楼門前から

本堂(県指定文化財)

寛文七年(1667)建立

石塔の四方仏(線刻)
 

仁明天皇御勅願書・在原朝臣業平公建立
平城天皇旧萱御所・阿保親王御菩提所
真言律宗
南都花の寺
所在地
奈良県奈良市法華町517

御本尊 聖観世音菩薩立像(重要文化財・平安初期)
由 緒
仁明天皇の勅願により近衛中将兼美濃権守在原業平朝臣の建立になる不退寺は大同四年(809)平城天皇御譲位の後、平城京の北東の地に茅葺の御殿を造営、入御あられられ「萱の御所』と呼称せられた。その後阿保親王及びその第五子業平朝臣(825-880)相承してここに住した。
業平朝臣伊勢参宮のみぎり天照大神より御紳鏡を賜わり「我れつねになんじを獲る。なんじ我が身を見んと欲せばこの神鏡を見るべし、御が身すなわち神鏡なり。」との御神勅を得て霊宝となし、承和十四年(847)詔を奉じて旧居を精舎とし自ら聖観音像を作り本尊として安置し、父親王の菩提を弔うと共に、衆生済度の為に「法輪を転じて退かず」と初願し、不退転法輪寺と号して、仁明天皇の勅願書となった。略して不退寺(業平寺)と呼び、南都十五大寺の一つとして、法燈盛んであった。その後時代の推移と共に哀頽したが慶長七年(1602)寺領五十石を得て、一時寺観を整え南都に得意な存在を示した。境内の整備も一段と振るい、面目とみに一新するに至った。
     -拝観のしおりより-


本堂(重要文化財)

多宝塔(重要文化財)
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