率川神社
いさがわじんじゃ
所在地
奈良県奈良市本子守町18 (三条通りの南)

御祭神 主祭神 玉櫛姫命 (たまくしひめのみこと) 右殿(御母神)
姫蹈韝五十鈴姫命 (ひめたたらいすずひめのみこと) 中殿(御子神)
狭井大神 (さいのおおかみ) 左殿(御父神)
摂社祭神 事代主命 (ことしろぬしのみこと) 阿波神社
末社祭神 三筒男命 (みつつおのみこと) 住吉神社
息長帯比売命 (おきながたらしひめのみこと)
春日四柱命 (かすがしはしらのみこと) 春日神社
御例祭
六月十七日 午前十時 三枝祭(ゆりまつり)

由 緒
当神社は、推古天皇元年(593年)に大神君白堤がお祭申し上げた奈良市に於ける最古の神社であります。
三枝祭(さいくさ)とは白酒(しろき)、黒酒(くろき)の酒樽に、本社三輪山でとれた笹百合の花(古名さいくさ)を飾ってお祭するところから起こった名前で、文武天皇、大宝年間(701年)から伝わる古式の神事で、お供えの百合の花は、疫病除けとして参拝者がきそって乞い受けるものであります。
尚当社は古来(子守明神さん)安産、育児の神として篤い信仰をあつめております。
     -境内の案内板より-

率川坐大神神御子神社 三座
近鉄奈良駅南方約450メートル。
春日山に発して西流、荒池・猿沢池畔から市街地を経て佐保川に合流する率川のほとりに鎮まる神社を式内の当社にあてられている。
     大神神社の境外摂社
中殿に姫蹈韝五十鈴姫命、右殿に玉櫛姫命、左殿に狭井大神をまつる。創祀二ついて、『古事記』『日本書紀』に開化天皇が春日の地に皇都を遷して率川宮といったとあるが、これを率川神社のこととみることはできない。推古天皇元年(593)二月、大三輪君白堤が勅命によって奉斎したと伝えられるが、最古の記録は、『続日本紀』の天平紳護元年(765)八月の条に「従三位和気王坐謀反謀。(略)索護於率河社中」とあることからこのころ以前に創祀されていたことになる。『新妙格勅符抄』の大同元年(806)の牒では、紳封六戸(左京四戸、丹後国二戸)とあり、『文徳実録』の仁寿二年(852)十一月九日に従五位下の紳位に預かっている。治承四年(1180)十二月平重衛の兵火に焼失、中世以後は春日の神官によって管理され、春日神社との関係が深く、近世は大宮外院十一社の一つであったが、明治八年春日神社と大宮神社の間に当社の所属について論争が起り、明治十年三月内務省通達で大神神社の摂社となった。
春日造の本殿は、三殿が障壁によってつながれた県指定重要文化財である。六月十七日に行われる例祭は、「紳祇令義解」に「率川社の祭なり。三枝花をもって酒樽を飾る際。故に三枝という」とある。三枝とは百合の古名で当日百合の花で酒樽を飾り祭典を行うので百合祭の名がある。すでに「大宝令」に示された鎮花祭にちなむ祭りで、悪疫除け祈願の行事である。
     -奈良県史(神社)より-


神社入口

やすらぎの道に面した所で、西に行けば、韓国神社があります。

社殿

拝殿と本殿

修復完了の本殿

2007年3月

修復完了の本殿

2007年3月
御祭神
事代主命 (ことしろぬしのみこと)

由 緒
近鉄奈良駅西方450メートル。
率川神社境内にあり、その本殿瑞垣外東に鎮座の小祠を式内の当社に比定されている。淳保二十年(1735)無名園古道翁の書である『奈良坊目拙解』に「率川阿波神社旧跡は南側東方より第二軒目の人家裏をいい、当時松樹一株存し神木たり。甚だ廃亡、嘆くべし悲しむべし」とある。祭神は事代主命で、子守明神の若宮である。宝亀二年(771)大納言是公の創祀と伝えられ(「奈良坊目拙解」)、「文徳実録」には、仁寿二年(852)十一月辛丑、従五位下の神位を授けられたと出ている。天文元年(1532)の一揆や度々の火難に廃絶、大正九年現位置に社殿を再建された。
   -奈良県史(神社)より-


瑞垣の外、道路との間に鎮座の阿波神社。

両脇に住吉神社・春日神社

かえる石
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