狭岡神社
さおかじんじゃ

旧社格 指定村社・式内社
所在地
奈良市法蓮町(県立奈良高校の西)

御祭神 主祭神 若山咋之神 (わかやまくいのかみ)
若年之神 (わかとしのかみ)
若沙那売神 (わかさなめのかみ)
弥豆麻岐之神 (みづまきのかみ)
夏高津日之神 (なつたかつひのかみ)
秋比売之神 (あきひめのかみ)
久久年之神 (くくとしのかみ)
久久紀若室葛根之神 (くくきわかむろくずねのかみ)
末社祭神 伊弉諾大神 (いざなぎおおかみ) 四所神社(右側社殿)
天照大神 (あまてらすおおみかみ)
住吉大神 (すみよしおおかみ)
春日大神 (かすがおおかみ)
天満大神 (てんまおおかみ)
八幡大神 (はちまんおおかみ)
地主之神 (じぬしのかみ) 惣社殿(左側社殿)
金山彦神 (かなやまひこのかみ)
事代主神 (ことしろぬしのかみ)
由 緒
県立奈良高校の西に鎮座。旧村社。「延喜式」神名帳の添上郡「狭岡神社八座」とされる。八座の祭神は若山咋之神・若年之神・若沙那売神・弥豆麻岐之神・夏高津日之神・秋比売之神・久久年之神・久久紀若室綱根之神となっている。仁寿二年(852)十一月、従五位下を授けられた(文徳実録)。地元では「菅原天神の隠居」といっており、境内には天神社と刻まれた灯籠が多い。社名の狭岡は佐保岡の母子音脱落ともいわれるが、「大和志」は「大神分身類社鈔並附尾」「大三輪神三社鎮座次第」に率川神社(現奈良市)北方、開化天皇率川坂上陵の東隣にある漢国神社(現奈良市)を「狭加岡・坂岡神社」と記すため、狭岡は狭加岡の加が脱落したものとして、漢国社を式内狭岡神社であると考証する。「延喜式」神名帳や「文徳実録」仁寿二年(852)十一月九日条などには率川坐大神御子神社・狭岡神社・率川阿波神社というように、率川に挟まれた形で狭岡が出、率川と狭岡に何らかの関連もあるように推定されるが確証はない。「大和志」は「在法蓮属邑佐保田」とし、現奈良市法蓮町・北新町・北市町などの尊崇が厚かった。なお社殿について永享七年(1435)の佐保田庄引付(天理図書館蔵保井文庫)に「天満宮遷宮事、造遷殿於材木者彼山松山也、板入目等者用奉加銭、此御殿神者春日御遷宮之時分買得御三之神殿出二十貫文被立申」とみえ、応永三四年(1427)の春日社式年造替に際して、その第三殿を当社が買ったことを記している。「大乗院寺社雑事記」明応四年(1495)二月三日条に、佐保田天神領一反のあったことを記す。
     -寺院神社大辞典(大和・紀伊)より-

     狭岡神社由緒
本狭岡神社は霊亀2年(西暦715年)藤原不比等(淡海公)が国家鎮護、藤原氏繁栄のため勅許により己の邸宅佐保殿の丘上に天紳八座を祭祀し崇拝しました。これが佐保丘天神、狭穂岡天神、狭加岡天神となって今の狭岡神社になったのであります。
 次いで藤原淡海公は、天平神護景雲年間に河内の国枚岡より藤原氏の租紳である、春日大明神を大和の国奈良の御蓋山へ移され斎祀せられました。これが今の春日神社であります。それ以来国政の大事や、氏神春日詣でには藤原氏一門が(公家、女官たち)この佐保殿に集まり必ず狭岡天神に参籠して「日待ちの神事」奉行精進潔斎して、それより日の出を待って国政に掌り、春日社詣でをしたと古事に出ています。
 現在の狭岡神社は佐保の里一円の氏神様で昔から産業の天神、智慧の天神、災難よけの天神さんであると崇拝され、その霊験あらたかなことは氏子中ではよく知られているところであります。
     -由緒記より-

神社入口
神社入口

右側に行けば、奈良高校
左側に行けば、教育大付属中学への道です。

佐保、狭岡の地名の起因
万葉集に『佐保』『佐保山』『佐保川』『佐保の内』『佐保道』『佐保風』等の語が出ており、『佐保』は法蓮から法華寺に至る一条通り一帯をさしている。この地名の起因は「開化天皇の皇女、狭保比売(第11代垂仁天皇の皇后)の住んでいた土地なりとの伝説もある。』その狭穂比売は、古事記に佐波遅比売、沙本毘売日本書紀では狭穂姫と表されている。これが万葉仮名になった時は狭穂姫となし、現在の『佐保の丘』という語から「ホ」が欠落し『サオカ』となったとも云われている。
鏡池
狭穂姫伝承の鏡池

参道からの景観
狭穂姫姿見の池
狭穂姫伝承の鏡池

狭穂姫の伝説
狭穂姫、狭保姫、佐保川、佐保山と、佐保山のあちこちに「サホヒメ」の伝説が山や谷間の霧のように2000年の歴史を秘めて漂うている。当社境内にある『洗濯池』『姿見池』「鏡池」は古事記や日本書紀に出ている、狭穂姫の「沙本毘売命、佐波遅比売、佐保姫」の伝説池であります。佐穂姫の母は沙本之大闇見戸売、「サホノオオクラミトメ」父は日子坐王「ヒコイノマスノキミ」狭穂姫は母の所領が狭穂の丘陵にあったので幼小から成人するまで母と住んでいた。若い垂仁天皇とこの泉のほとりで恋のロマンスが生まれて垂仁天皇の皇后になられました。狭穂姫は反逆の兄上に殉じられた故か陵碑はどこにも現存しない。当神社の『洗濯池、鏡池』の伝説は貴重な存在で碑は現在常陸神社にあり何とか話し合って、何れかに永久保存にもっていくことが大事であると思う。
―由緒記より-
狭穂姫伝承の地
狭穂姫伝承地の石碑

参道からの景観
狭穂姫伝承地
狭穂姫伝承地の石碑
参道の階段
参道の階段

天神社の石燈籠が並んでいる
万葉歌碑
参道横の万葉歌碑

君に恋ひいたもすべなみ奈良山の
 小松が下に立ち嘆くかも
      万葉集巻4593 

笠郎女(かさのいらつめ)
天平時代笠氏一族の娘はあなた恋しさの思いをどうすることもできず美しい松の木の下で只々あなたを待ちつつ、苦しい思いをしているのですと訴えます。
君は大伴家持、君の住む佐保のあたりを思いつつ歌ったのでしょうがこの恋は悲恋に終わったようです。
天満宮の石碑
天満宮の標石

参道の階段を上った所にあります。
拝殿
拝殿と社殿
狛犬(左) 狛犬(右)
狛犬
拝殿からの本殿
拝殿からの社殿
本殿
本殿
拝殿と本殿
拝殿と社殿

朱の瑞垣と本殿、本殿の左右に境内社が鎮座
祭神の系図
祭神系統図

拝殿前の御供所に掲示されている。

拝殿前の御供所
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