杭全神社
くまたじんじゃ

旧社格 府社
所在地
大阪府大阪市平野区平野宮町二丁目一番六七号

御祭神 主祭神 素盞鳴尊 (すさのうのみこと) 第一殿
伊弉冊尊 (いざなみのみこと) 第二殿
速玉男尊 (はやたまおのみこと)
事解男尊 (ことさかおのみこと)
伊弉諾尊 (いざなぎのみこと) 第三殿
摂社祭神 市杵島姫命 (いちきしまひめのみこと) 宇賀神社
粟柄神 (あわえがみ) 鎮守神社
由 緒
平安の初期、征夷大将軍坂上田村麿の子広野麿が杭全荘を荘園として賜ってこの地に居を構え、その子当道が貞観四年(862)に氏神として素盞鳴尊を勧請し祇園社を創建したのが第一殿である。
当社所蔵の「平野郷社縁起」によると、「昔、坂上某に神託ましまして、我はこの郷の地主の神也。時の至るを待つこと久し、即ち山城の国愛宕群八坂郷祇園の牛頭天皇これなり、今よりこの郷にあがめ祭りなば安穏人民豊楽を守らんと宣ひ、まのあたり影向し給ひしかば、有難覚侍りて、勧請し奉りしと也。其の比影向し給える所に生えた松なればとて、今に残りて当社影向の松とぞ言い伝え侍ける」とある。
降って、建久元年(1190)に熊野信仰の流行するに及び、熊野證誠権現(伊弉諾尊)を勧請建立したのが第三殿である。 同じく「郷社縁起」によれば「仰當社に熊野證誠大権現の尊形遷座ましましけるは後鳥羽院の御宇建久元年三月三日、當社へ山伏一人笈を負い来り社僧にかたりて曰く、役の小角御手づから彫み給う熊野證誠大権現の尊形を付属すべし、當社牛頭天皇とならべてあがめ奉りなば、此の郷を守らせ給い長く繁栄の地とならんといひ侍りしかど、社僧うけひかざれば、山伏跡をけちて帰り去りしが、當社より四五町ひつじさるの方なる一本の松に件の笈をかけ置きぬ。其夜今の権現鎮座ますほとりへ此松より光をはなてり、笈かけ松とて今に残れるは是なり、加之その比當社の境内において一夜に梛の木三本生出て鳥三羽飛来り、人をも恐れず三本の梛にやどれり今の世迄も梛を神木とあがめ鳥を使鳥とするは是なり。其時人々奇異の思いをなし松にかけ置し笈を開き見侍るに、微妙瑞厳の尊形おはしましければ、身の毛もよだちて有難く覚え、まぎるべくもあらず熊野證誠大権現と拝み奉りぬ、殊更種々の奇瑞ありしかば七名の長是をはかり、日あらずして社壇あらたにし奉り尊形鎮座ましまして證誠殿とあがめしかば、貴賎心を傾け遠近歩を運び、神虚を仰がざるはなかりき」と、證誠殿勧請の由来が記されている。
更に、元享元年、(1321)に熊野三所権現(伊弉冊尊・速玉男尊・事解男尊)を勧請建立したのが第二殿であり、この時、時の帝後醍醐天皇より「熊野三所権現」の勅額を賜った。
「郷社縁起」では、「後醍醐天皇の御宇元亨元年、當社熊野権現影向の来由を天聞に達せしかば、叡慮浅からず詔勅ましまして、證誠殿の社再興ありて更に熊野三所権現を勧請し奉り、此の一郷の總社にいはひ、若一王子等の諸社、熊野権現の本地阿弥陀如来安座し給える寶塔以下の諸堂修造こと終わり、華表の額熊野三所権現と宸翰をそめさせ給ひ、神宮寺社僧寶祚長久を祈り奉るべき宣旨を下し給ひぬ」と、あって、この時に荒廃していた諸殿・諸堂が修復され、詔勅によって熊野権現社が総社となり、第一殿の祇園社と並び称されるようになった。
明治になって、社号を杭全神社と定められ、本来の祇園社(素盞鳴尊・牛頭天皇)を本社、熊野三所を雑社熊野神社とし、證誠殿を摂社、田村堂を別社その他を末社と定められた。
明治五年に社格を定められた時に郷社に列せられ、同三十九年に指定神社になり、同四十年に幣帛供進神社に指定された。
昭和五年に府社に昇格。そして、戦後は宗教法人杭全神社となり、今日に至っている。本殿三殿は全て国指定重要文化財である。
     -神社略記より-


国道25号線交差点からの参道が、社殿に一直線に伸びている

くすのき社

拝殿への参道


拝殿前の狛犬

拝殿横からの社殿

門の後ろに本殿が少し見えます

本殿前の門

第二殿(證誠殿)

垂乳根いちょう

十柱神社

稲荷神社

田村社
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