森野旧薬園
もりのきゅうらくえん

所在地 奈良県宇陀市大宇陀区捨生
概 要 
森野旧楽園は今から250年ほど前、享保14年に森野賽郭翁(通貞、通称藤助、号賽郭)によって開かれた。その祖先は吉野朝に奉仕し下市に居住し、元和2年宇陀松山に移住して森岡姓を森野と改め、代々農業のかたわら葛粉の製造によってその名を知られていた。
 藤助は元禄3年に生まれ、薬草木の研究を愛好した。たまたま享保の八代将軍吉宗は本草学を好み舶来の薬品が高価で一般庶民の手に入り難いのを憂えて国産の薬物で外来品に代わるものを探すため、諸国に人を派遣したがそのうちの一人幕府採薬師であった植村佐平次政勝が享保14年大和地方へ来た時に大和代官の推挙によって御薬草見習として出仕し植村氏にしたがって室生山に入り始めて薬草採取を行い神末村に於いてカタクリを発見して以後カタクリ粉製造の端諸見を得、奥宇陀の山野渓谷をへて吉野郡峯の今日でもなお多くの苦労を伴う深山幽谷をへて高見山及び金剛山まで約4か月を費やして採薬旅行を終了した。その後享保17年再び植村氏にしたがって近畿および北陸の薬草を採取し、同20年又植村氏と近畿の薬草を、超えて寛保3年植村氏と鈴鹿、美濃、江州などに採薬を試みた。幕府は森野藤助のたびかさなる採薬の功を賞するため、当時官園に栽培してあった貴重な薬草木の種苗を下付し藤助はこれを自分の家の後ろの小山に植付けたのは森野薬園の起源であおの後種々の薬草を増殖し珍木奇草を集めたのである。享保20年藤助46歳の時苗字帯刀が許され薬園はおいおい幕府の補助機関となった。寛延2年賽郭は家督をその子武貞にゆずり桃岳庵と名付けた園内の静かな山荘に自適して薬草研究と風詠の道を楽しみこの間に稿本【松山本草】全10巻を画き続けた。これは一々自分で写生し彩色した精密な動植物図譜でその生涯の研究の結晶とも云うべく薬園文庫所蔵品の中でも最も貴重な遺品の一つとされている。
 賽郭翁の偉大な業績の裏面には忠僕佐兵衛がある。佐兵衛は吉野郡木津村から12歳の時に来て忠実に表裏無く主人に仕え幕命により主人が採薬の留守中はよく家事一切を切り盛りし明和年中82歳に至る72年間独身で主家に中勤奉公を尽くした美談を忘れてはならない。
 賽郭翁は明和4年6月3日忠僕佐兵衛の寝食忘れての看病の甲斐なく「賽郭は未だ死もせず生もせず春秋ここに楽ぞする」の辞世の句を残し78歳で病没した。その後明治維新の廃藩事情や洋薬輸入の影響で全国各地にあった薬園はほとんど廃絶した中にあって一人森野薬園のみが創設以来250年以上も継続、発展し今日なお往時の面影そのままを伝え日本薬園史上貴重な資料を保存している。
 大正5年文部省保存史跡に指定され、昭和26年には昭和天皇が御来園になり先代森野藤助がご案内申し上げ森野家有史以来この上ない光栄に浴している。
 薬園は宅地から小門をくぐって登っていくが背後は城山に連続し東西南の三面はよく日光をうけて地味きわめて良く、しかも排水もよく植物の栽培に好適で、250種類の薬草が現存している。
     -森野旧楽園の栞より-


森野旧薬園本店

店内から裏山へ行くことが出来ます。店の奥では葛を製造をしていました。

しゃくなげ

菖蒲

薬園から見た町並み

しゃくなげ
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