村屋坐弥冨都比売神社
むらやにいますみふつひめじんじゃ

旧社格 県社・式内大社
所在地
奈良県磯城郡田原本町蔵堂426

御祭神 主祭神 三穂津姫命  (みほつひめのみこと)
相祭神 大物主命 (おおものぬしのみこと)
摂社祭神 天児屋根命 (あめのこやねのみこと) 村屋神社
経津主神 (ふつぬしのかみ)
比咲大神 (ひめおおかみ)
武甕槌神 (たけみかづちのかみ)
大伴健持大連 (おおとものたけもちおおむらじ)
大伴室屋大連 (おおとものむらじおおむらじ)
天之久久之遅命 (あめのくくのちのみこと) 久須須美神社(恵比須神社)
事代主命 (ことしろぬしのみこと)
天之御中主命 (あめのみなかぬしのみこと) 服部神社
天之御鉾命 (あめのみほこのみこと)
誉田別命 (ほんだわけのみこと)
炊屋姫命 (かしきやひめのみこと) 物部神社・市杵島神社
宇麻志摩遅命 (うましまちのみこと)
物部守屋大連 (もののべのもりやおおむらじ)
由 緒
初瀬川西岸、奈良県田原本町蔵堂に鎮座。祭神は三穂津姫命・大物主命。弥富都比売は大物主神の妃神で大神神社(現奈良県桜井市)の別宮ともいう(大三輪神三社鎮座次第)。社蔵の寛永十五年(1638)の梵鐘には「森屋大明神」とあり、天王ともいう(大和志)。旧郷社。『日本書紀』天武天皇元年七月二十三日条に壬申の乱に関して、「又村屋神、祝に着りて曰く、「今吾が社の中道より、軍聚至らむ。故、未だ幾日を経ずして、庵井造鯨が軍、中道より至る』と記す村屋神にあたる。書紀の記載どおり中ッ道が境内を南北に走っていたと推察される。村屋神は前記信託の功により位階を進められ(日本書紀)、天平二年(730)の大倭国正税帳(正倉院文書)によると、神戸の租稲五四束二把のうち、実に五四束が祭祀料(四束)・神嘗酒料(五〇束)に充てられていた。大同元年(806)の牒(新抄格勅符抄)によると、大和国で三戸、美作国で三戸の紳封を有し、天安三年(859)一月二三日、従五位下より従五位上に昇叙した(三代実録)。「延喜式」神名帳の城下郡には「村屋坐弥富都比売神社(大、月次相嘗新嘗)」とみえ、相嘗祭には絹一疋、調布三端四尺、鮑十両などのほか酒稲五十束が奉られた(同書四時祭)。平安時代には伊保戸荘(いおどそう)のうちに三反の社田を有していた(興福寺雑役免帳)。中世豪族の筒井氏は当社氏人森屋党の出身とする説もある。
慶長四年(1599)の御社記(当社宮司森屋家文書)に「天正之度国乱之後紳領八十反皆被没収無禄と成故、(中略)社家社人社務等追々及絶断、漸々神主壱軒・禰宜二軒・神子二軒ニ羅成、(中略)社頭追追衰廃して旧例之失社格、神主禰宜神子等其職を勤る事難成、紳祭懈怠におよふ事二十有余年』とみえ、これを嘆いた当時の神主森屋重政が慶長四年に神社修復、祭祀の復興をはかった。近世には近隣十四カ村で宮郷が形成され、現田原本町伊与戸・笠形・大木・大安寺、天理市遠田町からなる宮座を守講と称し、慶長十二年の「村屋大明神守講中箱」と墨書した箱や、宝剣・神名帳・和歌集などが残る。文禄四年(1595)の蔵堂村検地帳(田原本町史)によると、大禰宜田六畝、神子田三畝六歩があった。境内社叢は県指定天然記念物。
【境内摂社】
城下郡の式内社に比定される次の三社がある。服部神社は「延喜式」神名帳に「服部神社二座(鍬靫)」とみえ、天御鉾命・誉田別命を祀ると伝える。「大和志」に「在大安寺村今称波都里神」とみえ、社伝も現田原本町大安寺字初り神から遷祠したという。村屋神社は「延喜式」神名帳に「村屋神社二座」とみえ、明治二十四年(1891)の『神社明細帳』には祭神は「経津主神・武甕槌神・室屋大連神・大伴健持大連神」とあり、旧社地は本社東方の宮山と伝える。「大和志」には「在蔵堂村村屋邑十三村民共預祭祀」と記す。久須須美神社も「延喜式」神名帳に「久須須美神社」とみえ、天之久之比命(あめのくしひのみこと)・事代主命を祭神とし村屋神社旧社地北に鎮座していたと伝える。
     -寺院神社大辞典(大和・紀伊)より-

由緒案内板
一の鳥居
一の鳥居

南から北へ参道が続いている。
ここが旧中ッ道が通っていた所です。
二の鳥居
二の鳥居

由緒案内板と社号碑が左右に建っています。
参道
参道からの拝殿
拝殿
拝殿
社殿
社殿
本殿
本殿
本殿
本殿

拝殿横からの本殿です
服部神社鳥居
物部神社
市杵島姫神社

境内摂社で唯一鳥居が立っている神社です。
御祭神は総て物部氏関係の祭神ですが、鏡池の中に神社が鎮座する形が市杵島姫神社です
物部神社
物部神社
市杵島姫神社



村屋神社
村屋神社


本殿の右側に鎮座
村屋神社
村屋神社 社殿

延喜式内社 旧城下郡 蔵堂 村屋神社
祭神 経津主神・武甕槌神・室屋大連神・大伴健持大連神
経津主神、武甕槌二紳は春日四紳の内の二紳であることから、春日神社とも言う。大連二紳は壬申の乱(672)に、吉野軍の将として活躍し、功績が高かったため、天武五年に合祀される。
この森屋郷は、古くは、室屋郷とも室原郷とも言い、室屋大連の神は、この地の出身ではないかと考えられる。この神社は、元は大宮から二百メートルほど東、初瀬川の川べりに鎮座されていたが、南北朝時代に兵火に合い、紳領を没収せられ、社地を縮小せざるをえなくなり、本殿を守るような形で、前に向かい合わせの型で遷された。明治の初めには、廃仏棄釈があり、仏教的なものは取り払われた。今二座が鎮座するところは、鐘楼跡と言われている。
 壬申の乱に功績のあった三紳の日本書紀の記述では、高市の事代主神、身狭の生霊紳と二紳は紳名まで表記されているが、村屋紳は地名だけ紳名がない。あるいは、村屋神社の二紳ではないかとも思われる。本社彌冨津比売神は女神であり、戦にはしっくりこない。経津主神・武御雷神の方がふさわしく思うが、決定する資料がない。村屋坐彌冨津比売神社 守屋宏尚 宮司

村屋神社の建築について
切妻造 妻入り 見世棚造 庇付銅板葺 千木・勝男木付である。柱間55㎝位の小社で、基壇上に土台を廻し、方柱を建てる。柱天端は簡略の大斗、舟肘木を組み繁垂木を打つ、正面板扉両開戸、見世棚上部三方板壁、同下部四面開放、見世棚上部片流れ庇付である。近代の建築された社で、木肌も新しいが、屋根勾配きつく、神明造風の2社殿である。     田原本町観光協会
恵比須神社
久須須美神社

縁起式内社 旧城下郡 蔵堂 久須々美神社(くすずみ)
 祭神 天之久之比神 事代主神
経津主、大国主神の子、事代主神であることから、若宮とも呼ぶ。元は、今、蔵堂橋の南のたもとに鎮座、伊豫氏(伊与戸)の氏神であった。この神社の南を南市場垣内(現森屋垣内)北を北市場垣内という。更に南へ行くと、幸市、市町等の小字が残る。古道、中ッ道と筋違道の初瀬街道と交わる位置にある事から、品社祭禮に近郷から参拝者が多く、地の産物を供え、残りを交換し合って市場が出来たと云われている。天正(1573-91)の頃、織田信長と遠(十)市氏の戦いで兵火に合い、市場衰退し、田原本藩ができる事によって、商人が移住、ますます寂れることになった。明治の初めに、現在の位置に移される。
 祭礼は十二月二十三日、夕刻 青竹の先に鯛を二匹と大根、人参を吊るして神饌とする。いわゆる三夜祭が行われていた。本社祭礼には、壬申の乱の功があった三紳を巡る渡御が行われていた。事代主神と云われるこの久須須美神社と、大安寺の森市神社(生霊紳)を巡り、本社へ戻っていた元弘年間(1331-3)の兵火で社地没収され、渡御は廃絶し、現在に至っている。    村屋坐弥富都比売神社 守屋宏尚 宮司

久須須美神社の建築について
切妻造 妻入り 見世棚造 庇付カラー鉄板葺である。柱間48.5㎝位の社殿で、自然石の基壇上に土台を廻し、方柱を建てる。柱天端は直接桁を受けている。中央板扉両開き、他面板壁、見世棚下部は正面のみ板壁、他面解放である。身舎、庇部分共板軒で、屋根勾配の緩い小社である。  田原本町観光協会
服部神社
服部神社

縁起式内社 旧城下郡 蔵堂  服部神社
祭神 天之御中主神  天之御鉾神
服飾関係を司る神である。
これより西二キロメートルばかりの所に、大安寺村字神来森(かきのもり)という土地がある。そこに鎮座して波登里村(はとりむら)、阿刀村(あとむら)の氏神であった。祭礼には、氏子が盆に綿を盛り、その上に十二梼を載せてお参りした風習があった。今は、綿の栽培がなくなったので、この風習はなくなった。
 元弘年間(南北朝)の兵火に遭い、社地を没収される。更に天正年間(織田信長)にも兵火に罹り、神主が御神体を背負い本社境内に遷したと言われている。
 この頃、波登里、阿刀村も消滅して、神社の経営成り立たず、そのまま本社境内末社となる。と同時に、壬申の乱の紳功を穪える。お渡りも中断する至り、未だ復興することが出来ない。       村屋坐弥富都比売神社 守屋宏尚 宮司

服部神社の建築について
切妻造 妻入り 見世棚造 庇付カラー鉄板葺である。
柱間56㎝位の社殿で、自然石の基壇上に土台を廻し、方柱を建てる。
柱天端は直接桁を受けている。中央板扉両開き、他面板壁、見世棚下部は正面のみ板壁他面解放である。身舎、庇部分共板軒で、屋根勾配の緩い小社である。     田原本町観光協会
inserted by FC2 system