多坐弥志理都比古神社
おおにいますみしりつひこじんじゃ

旧社格 県社・式内名神大社
鎮座地
奈良県田原本町多569

御祭神 主祭神 神武天皇 (じんむてんのう)
神八井耳命 (かむやいみみのみこと)
神渟名川耳命 (かむぬなかわみみのみこと)
姫御神 (ひめおんかみ)
太安万侶 (おおのやすまろ)
末社祭神 伊弉諾命 (いざなぎのみこと) 熊野神社
伊弉冊命 (いざなみのみこと)
奥津彦命 (おくつひこのみこと) 竈神社
奥津姫命 (おくつひめのみこと)
春日四柱神 (かすがしはしらのかみ) 春日神社
表筒男命外二柱 (うわつつおのみこと) 住吉神社
品陀別命 (ほんだわけのみこと) 八幡神社
布津魂命 (ふつのみたまのみこと) 石上神社
由 緒
社伝によるとヽ神武夫皇の皇子神八井耳命がこの里に来られ、・我ヽ天神地祗き祀る・・・という由緒をもつ。平安時代の「延喜式」にも名がみえる大和でも屈指の大社である。
神八井耳命を始祖とする多氏によって祀られヽ中世には国民である十市氏によって支えられた。
また、本神社の南にはヽ古事記の撰録にあたった太安万侶を祀る小社神社や皇子神命神社、姫皇子命神社、子部神社、屋就命神社の若宮がある。
本殿はヽ東西に一間社の春日造が並ぶ四殿配祀の形式をとる。
江戸時代中頃の建築様式をよく残すもので、奈良県の指定文化財になっている。
なお、本地は弥生時代の集落遺跡として著名である。
田原本町    -境内の案内板より-

近鉄橿原線笠縫駅南西1.3キロメートル、新ノ口駅北西1.5キロメートルの飛鳥川東岸に鎮座する。祭神神倭磐余彦命・神八井耳命・神沼河耳命・玉依姫命。俗に多神社という。創祀の古かったことは、天平二年(730)『大倭国正税帳』(正倉院文書)に、太神戸の稲壱萬伍百拾弐束伍把、租壱伯参拾捌束肆把合壱萬陸伯玖拾束玖把のうち伍伯八拾束が祭神・紳嘗酒料とあることからでもわかる。大同元年(806)の『新抄格勅符抄』には神戸が大和で10戸、播磨で35戸、遠江で15戸充てられている。「延喜式」神名帳では式内大社として登載され、四時祭の項の相嘗神七十一座の中に「多社二座」とあり、臨時祭では二座とも祈雨神祭・名神祭に預り、玄蕃寮式に新羅客入朝時に当って酒醸酒料稲30束を充てられている。「三代実録」の貞観元年(859)正月二十七日の条に従三位勲八等から正三位に賞状と記され、「本朝世紀』『日本書紀』には正暦五年(994)四月二十七日疫病放火の災変に際して中臣氏人に奉幣せしめたとある。平安時代には神田三町二四〇歩あったと『興福寺雑役帳』にみえる。中世には十市氏に尊信されたことは天文二十一年(1552)十市遠勝が社殿を造立に際しての下知状と十市遠忠雨乞奉納歌が所蔵されていることでもわかる。
鎮座地は「和名抄」十市郡の飫富郷で、神八井耳命を祖とする古代豪族多氏の根拠地であったといわれる。久安五年(1149)の『多神社注進状』には当社の旧名を春日宮と号して多氏の奉斎する神で、多臣蔣敷の孫が大安万侶だと記している(「五郡神社記」)。
『社記』によると古くは方六町歩が神社地で鳥居があったと伝え、現在東の鳥居は橿原市十市町の境の寺川河畔にある。神主は代々多氏を名乗る。
本殿の後方に神武塚と称する小丘があり、祭祀遺跡または古墳と考えられている。神社周辺からは多量の弥生式土器が出土する。弥生前期から中期にかけ待の集落の跡とみられる。「大和志」に「境内ニ有(ニ)神宮寺(一)」とあるが、明治の廃仏棄釈で廃寺となった。現在本殿の向って左30メートルの地をその寺跡と伝えるが、近年この位置から五輪塔の一部が出土したという。例祭は四月の第二日曜日。
-奈良県史(神社)より-


神社入口より

飛鳥川右岸の堤防沿いに鎮座
一の鳥居が約八百メートル東の寺川の堤防沿いにあります。

鳥居と拝殿

拝殿

本殿

参道入り口の案内板
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