楢神社
ならじんじゃ

旧社格 指定村社
所在地

奈良県天理市楢町443

御祭神 主祭神 五十狭芹彦命 (いさせりひこのみこと)
鬼子母神 (きしぼじん)
末社祭神 恵比須神 (えびすのかみ) 恵美須神社
誉田別命 (ほんだわけのみこと) 八幡神社
市杵島姫命 (いちきしまひめのみこと) 厳島神社
保食神 (うけもちのかみ) 稲荷神社
由 緒
楢集落の東南、楢川の南岸に鎮座する旧指定村社で、五十狭芹彦命を祀る。五十狭芹彦命は考霊天皇の皇子で、吉備国を平定し、名を吉備津彦命と改めた。当社はもと約1キロ東の東大寺山にあったと伝え、今旧社地に天照大神を祀る神明神社があり、当社を下の宮というのに対して上の宮ともいう。楢村の鎮守であるが、本地を訶梨帝母(鬼子母神)とし、近年は多産の神として信仰され、ここの神に授かった子に楢または奈良の字を付けたという。境内の井戸水はまた子授けの霊水といわれている。
例祭は十月十日で、神前にザクロの実が供えられ、十一日には上の宮への渡御がある。鬼子母神の紳像は、種子の多い多産のシンボルとしてのザクロの実を持っている。本殿は春日造一間社檜皮葺で、古老の言では文久二年(1862)の春日社式年造営の節、払い下げられ、氏子達が担いで帰ったと伝える。
     -奈良県史(神社)より-

当社は神護景雲元年(767)九月称徳帝の奏聞を遂げ神託により宮山に創建された。東大寺二月堂修二会に読誦する東大寺上院神名帳に和邇・楢・巻向とみえて和爾坐赤坂彦神社に続いてナラツヒコ(奈良豆比古)神社と読まれる神社や、また、延喜式神名帳の添上郡にみえる奈良豆比古神社に比定する説もあり、当社の伝聞する説話に符合するのであるが、鬼子母紳を合祀して二柱御神霊を祭祀するようになり楢大明神『楢の宮さん』として畏敬され慕われてきた。昭和31年に現在の楢神社に改称した。
そもそも、楢の地名は、東方三キロの和邇族の拠点と認められる地域にある西山古墳群の一つから『佐井寺僧道楽師 族性 大楢君 素止奈之孫 和銅七年(714)二月二六日命過』と記載された墓誌が発見された。そこに見られる『大楢君』と称する属性名に由来すると考えられる。また、大楢君素止奈は650年頃の在世と推定でき、飛鳥時代中期斉明天皇時代の人物である。
 従って楢の地に、英傑智謀の誉れの高い楢族の遠祖ナラツヒコ命を祭神としたナラツヒコ命神社を創設しても不思議ではないし、神仏混淆の時代であり、しかも、佐井寺在籍の僧侶を擁する氏族とすれば鬼子母神をナラツヒコ命と合祀しても不思議でない。他方、ナラツヒコ命、即ち、五十狭芹彦命を同一紳とする説話は、日本書紀の一書に曰くとして取り上げられていて当社の伝聞にも符合する。それ故に、明治の廃仏毀釈令のおり、祭神がナラツヒコ命から五十狭芹彦命となり、神社名がそれにならって動いたとしてもやむ無いことであろう。ナラツヒコ命、即ち、五十狭芹彦命の智・仁・勇に秀でた英傑智謀のご神徳を尊び、崩御されたとする北陸の土地から慈照方便深く伐苦与楽の神であり、和光同慶の眼を開き給もうて小児を愛し万民撫育の慈愛の御紳徳の高い鬼子母神をお迎えして合祀し、二柱の御神霊を併せて楢大明神として祭祀したのである。
 爾来、大明神の奇・幸・和・荒御魂の御紳徳に対する人々の崇敬は弥が上にも高まり、中世から近世に当社が広く人口に膾炙したのである。その盛況ぶりは、奉納された玉垣や灯篭に刻まれている氏名が県内一円は云うに及ばず機内一円に及ぶことからも推測されよう。中でも、大阪長堀の商人伊丹屋政介の奉納した神宮皇后が応神天皇を竹内宿禰に預けて出陣される様子を描いた県下屈指の大絵馬、笠置の酒造家大倉一族、大阪屋一族等の崇敬者が奉納した大灯籠等に加えて弘化三年に大阪島内南畳屋町山田屋善七倅楢吉が世話人になり狛犬彫士高松彦四郎、妻ことによって寄せ木彫りの狛犬を奉納していてまた、八代目市川団十郎が厚い信仰を寄せていて弘化五年(1848)紳井に『ならの葉の広き恵みの神ぞとは、この三益井を汲みてこそ知れ』の和歌と一族の男七人、娘五人の名前と桝三重ねの家紋を刻んだ井筒を寄進している等の事情から頷けよう。更には、文久二年(1861)には春日大社の五十二次式年造営に当たり神殿の払い下げを受ける等御祭神の御神徳の高さが伺い知ることが出来る。
 明治以降の治乱興亡の時代にあって常に万民を慈しみ、健やかな子供を授け、育て給うて幸せな恩頼を蒙らしめ給うとして、氏子崇敬者の畏敬の的となっている。
     -楢神社の由緒より-


入り口の鳥居

銅製の鳥居です。初めて見る姿に感心、新しい時は、朱塗りの鳥居のようであったのだろうか。

社殿

鳥居を入って左側に鎮座。

拝殿

狛犬が柵で防護されている

本殿

境内社

八幡神社(右側)


恵比寿神社
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