御社
みやしろ

旧社格 
世界文化遺産
所在地
和歌山県伊都郡高野町高野山152

御祭神 第一殿 丹生都比売命
気比明神
第二殿 高野明神(狩場明神)
厳島明神
第三殿 十二王子
百二十伴神
摩利支天
由 緒
西塔の南に一段高く位置し、壇上伽藍の西端にあたる。「みやしろ」ともよばれる。北から丹生明神社と高野明神社の本殿二社、三扉の総社の三社が東面する。総社の祭神は北の扉に十二王子、中の扉に百二十伴神、南の扉に摩利支天。本殿二社は一間社春日造り、檜皮葺。総社は三間社流見世棚造、檜皮葺。以上三棟は国重要文化財。これらの社前に諸神事・法会を執り行う拝殿が建ち、三王院という。桁行き10間・梁間四間で檜皮葺。
御社は 弘仁10年(819)五月三日、空海が高野山の鎮守として勧請したといわれ、その時の啓白文と称するものも伝わるが(高野山興廃記)、実際に勧請されたのは初代検校雅真(長保元年没)の時代であったとみられている。高野山を維持し、興隆させるには、山麓周辺の有力者の援助を得る必要があった。真然(寛平三年没)の時代に、高野山と丹生都比売神をまつる天野社(現和歌山県かつらぎ町の丹生都比売神社)との間になんらかの関係が成立していたが勧請されりまでには至らず、雅真の時代になって、伊都・那賀郡一帯に勢力をもっていた坂上氏が祭祀していた天野社を高野山上に勧請するに至ったとの説がある。御手印縁起に付される絵図には壇上の現在地に二社が描かれ、「丹生社」「高野社」とある。山王院は「高野春秋」延久二年(1070)三月条に、 『大師自異国御随身不動明王尊像意欲迎請于帝都、依勅住侶出京、天子(御三条院)叡造竹剣、令之持、賜野山、所謂任十二坊衆瑞夢之協、令留眞古所持之剣熱田大明神之社頭也、(中略) 荷負来安置山王院、(中略)諸人至心丹祈、無不願而遂矣、』 とあり、その創建はおそらく11世紀中頃と考えられる。院政期に入ると皇族の登山が相次ぎ、当社に度々奉幣が行われた。寛治二年(1088)の「白河上皇高野御幸記」に、『先丹生高野等明神、並眷属諸神料、被奉白妙御幣三棒、依長者定賢申、不差別使付之、寺家先例参詣、此山之人依為地主明神、必奉幣帛、尋其誉田天皇割山地、定四至之、丹生明神、当大師草創之時明神付属此地、于今嘗其法味、為寺善神故必得此幣也、』と記す。天治元年(1124)10月28日には鳥羽上皇が(鳥羽上皇高野御幸記)、久安四年(1148)閏6月21日には山麓中の覚法親王が奉幣し(御室御所高野山御参籠日記)、後宇多上皇も正和二年(1313)8月御幸の際に奉幣した(後宇多院御幸記)。東寺長者の高野拝堂の時も当社への奉幣の儀式が執り行われた(東長儀)。承安二年(1172)検校禅信によって神殿・惣社・山王院などが造替えられた(金剛峯寺巡礼日記)。
建治二年(1276)前大和守から高野山丹生社安居供料として紀伊国田井郷の麦三石が寄進された(同年三月五日「丹生社安居供料国司方請文」宝簡集)。応永十四年(1407)五月、三王院で南都の法華・維摩の二会を移した堅精論義が始修された(高野春秋)。それに伴い堅義料田として同十六年五月三日の阿闍梨祐宝寄進状(続宝簡集)によれば那賀郡麻生津荘中村(現和歌山県那賀町)、同日の阿闍梨祐宝寄進状(同集)によれば、天野郷堺原(現かつらぎ町)の田地が寄進され、翌年八月十日には堅義用の白裳が寄進された(「入寺重深等寄進状」同集)。同二十二年には沙弥持通から山王院常灯料田として荒川荘(現同県桃山町)内の田地が寄進された(同年九月十六日「沙弥持通寄進状」同集)。また長禄三年(1459)正月と二月には山王院が学侶の評定所となった(同年正月十四日・二月九日の「学侶評定事書案」又続宝簡集)。
永正十八年(1583)壇上伽藍の大火に焼失(高野山焼失記)。天正十一年(1583)木食応其が羽柴秀吉の援助を受けて再建し、納衆42口・讃衆20口で遷宮曼荼羅供を執行した(同年六月日「山王社遷宮曼荼羅供請定」・同年七月一日「裏書」又続宝簡集)。文禄三年(1594)に再建されたとする説もあるが、確証はない。これが現存の建物で、昭和五十三年(1978)から五十五年にかけて解体修理が行われ、旧観に復した。
     -寺院神社大事典より-


金堂横からの景観

拝殿(山王院)

本殿

本殿(第一殿)

一間社春日造、檜皮葺。
極彩色の装飾
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