吉野水分神社
よしのみくまりじんじゃ

旧社格 村社・式内大社
(世界文化遺産)
住所
奈良県吉野郡吉野町吉野山1612

御祭神 主祭神 天之水分大神 (あめのみくまりのおおかみ) 正殿
天萬栲幡千幡姫命 (あまよろずたくはたちはたひめのみこと) 右殿
玉依姫命 (たまよりひめのみこと)
天津彦火火瓊瓊杵命 (あまつひこほほににぎのみこと)
高皇産霊神 (たかみむすびのかみ) 左殿
少彦名神 (すくなひこなのかみ)
御子神 (みこのかみ)
末社祭神 柴神社
速玉神社
大神神社
住吉神社
由 緒
吉野山上千本の急坂を登りつめた子守集落の丘陵上に鎮座の社が、『延喜式』神名帳吉野郡十座の筆頭にあげられている吉野水分神社である。創祀は明らかでないが、大同元年に紳封一戸をあてられ(『新抄格勅符抄』)、承和七年(840)十月七日无位の水分神に従五位下(『続日本後記』)を、貞観元年(859)正月二十七日に正五位下に進叙(『三代実録』)、同年九月八日風雨祈願のための遣使奉幣神社43社の中に列している(同前)。『延喜式』神名帳には大社に列し、四時祭式には祈年祭に奉幣物へ馬一匹を加えられ、臨時祭式では、祈雨祭神85座の中に「吉野水分社一座」として記されている(『延喜式』巻三)。  祭神は現在中央正殿に主神の天水分神、右殿に天萬栲幡千幡姫命・玉依姫命・瓊々杵命を、左殿に高皇産霊神・少彦名神・御子神を祀る外、隋紳として女柱10柱と男柱三柱を合祀している。  旧鎮座地は古く、現在の吉野山山頂の青根が峯(858メートル)に比定される芳野水分峰神として、『続日本紀』文部天皇の二年(698)四月二十九日に、雨を祈るため馬を奉ったと記されている地点であったとされる。しかも当社本来の旧地(拝所)は、水分峰神の鎮まる山頂から約一キロメートル西北の字ヒロノ1416番地で、今も元水分社跡と伝えられている。ここから拝む山は、文字通り神体山特有の円錐形の山容で、東へ音無川、西へ秋野川、南へ丹生川、北へ象川(喜佐川)を流す四水流の分水嶺として水分神の鎮座地にふさわしい地形である。特に各四水流沿いにはそれぞれ古代寺社や遺跡があり、中でも北の宮瀧遺跡は有名である。現社地への遷座の時期は明らかでないが、遅くとも当社や金峯神社に神位を授けられた平安初期ごろとみられぬだろうか。  印度の仏が日本の神として垂迹したという神仏習合の傾向が強くなると、水分神も『金峯山秘密伝』にあるように、地蔵菩薩の垂迹とされ、明治初年の廃仏棄釈まで当社は社僧と神官によって護持された。文禄四年(1595)の「吉野山惣中御朱印知行割」には、当社僧15名48石・禰宜・八乙女13名22石5斗と出ている。  水分神は本来司水神であったと同時に、子守・子授けの神として信仰されたことは本居宣長の『菅笠日記』に明らかである。すでに藤原道長が金峯山詣でに当って山上の子守三所に奉幣祈願したのも子授けの神への祈願だったとの説もある(石田茂作『金峯山経塚遺物の研究』)。この信仰は今日もなお生き、子授け祈願の人も少ない。これについては、水配-みくまり-みこもり(水籠・身籠)-こもり(子守)などと転音したという通説であるが、あらゆる生産の根源としての水の持つ神秘性や、生命力への古代人の驚きから水の神の持つ属性として、農耕紳・子守紳との二重神格が生まれたのでないかとの故景山春樹氏の説にうなずけるものがある。  本殿は、高い石段の上に建ち、中央春日造の主殿に左右流造の三殿が一棟につなぐ特有な水分造で、桃山後期の特色を持つ重要文化財。  右殿奉安の玉依姫命神像は、建長三年(1751)十月十六日等の胎内銘を持つ国定で、鎌倉の美術精神があふれている。同殿内の天萬栲幡千千姫命も重文に指定されている。
     -奈良県史(神社)より-


参道の階段から重要文化財の楼門が迎えてくれます

境内の拝殿

楼門から

拝殿

拝殿内の神具

境内の牡丹

重要文化財の本殿

中央部の春日造り本殿

本殿と拝殿にはさまれた庭
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